かった「あげだし」は、師匠も父も大の好物であったから、これだけは幾皿も重ねて、一本の銚子をながいことかかって酌みかわすのであった。
 池に面した揚出しの古びた格子窓を眺めやりながら、ふっと、その内らから老人ふたりの徐かな話し声が洩れてくるような気がして耳をすましてみたが、聞えるのは客を送り迎える小女たちの嗄れて甲高い声ばかりであった。
 思いたって、池ノ端仲町の通りをすぎて数寄屋町の足馴染みのいつもの横丁へ折れた。先年、父を喪うてからは何とはなしに無沙汰がちになっている。師匠との久びさの面接を何がなし面映ゆく思い描いた。
 角が喫茶店に変っていた。去年の暮に来た時は、まだ婦人子供服のきれ[#「きれ」に傍点]屋で、門口二間ばかりの小店先きには飾窓なども設らえて、花模様の洋服布地をかけならべていたのであった。それが造作がえして、硝子窓だの硝子張りの扉をとりつけて、「高級喫茶ミューズ」などと出ている。きれ[#「きれ」に傍点]屋の以前は荒物屋で、所せまいまでに置き並べた中に寿女さんのおっ母さんが俯向きにお針の手をせっせと動かしていたものであった。そのおっ母さんの姿をふっと喫茶店の窓硝子に見る気
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