処世の道に才長けているさまを眺めるのは、怖しくもまた哀しいことに違いなかった。無のうちに針を取り、無のうちに針をおく、ここにあるのは、ただ、針に通う心ばかりである、この針がたった一つの眼を気にしただけで、糸の乱れのくる怖ろしさを師匠は語られたことがあった。
 わたくしが初めて師匠の作にふれたのは、まだ尋常に通っている時のことで、刺繍というものを色彩華麗な装飾物として決めてかかっていた子供のわたくしの眼には、意外に詰らぬものを見る気がされた。それは、綴錦か何かの地に面《めん》を二つ三つ縫取りしたもので、焦茶、茶、淡茶、白というような色どりが如何にも地味すぎて、味気無く見えた。また、面の配置がいかにもぶざまで、これも稚いわたくしの眼には興なく見えた。幾年かすぎて、父はこれを請うて持ちかえり額縁にいれて居間に掲げておくことになった。父の解釈に、この繍は不完全の調和をなしているという。同系統を用いた色糸の単調の美、ぶざまとみえていた面の置きかたの妙も、わたくしには少しずつ解けるようになった。父亡き今、自分の小室にこれを掲げ眺めて、いよいよ、この繍の妙趣に惹かれる。完全の調和として、装飾的色彩華
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