して来た過去の生活の為めに、涙を流して泣いてゐるのである。
己に顔を見られたのに気が付いて、ワシリは気を取り直した様子で頭を振つた。
「こんな事を言つたつてしやうがありませんですね。それよりは、わたくしが樺太の牢を脱けた時のお話でもしませうか。」
己は喜んで聞く事にした。この流浪人の物語は夜の明けるまで尽きなかつた。
――――――――――――
千八百七十〇年の夏の夜の事である。汽船ニシユニ・ノフゴロド号が黒い煙を後へ引きながら日本海を航行してゐる。左の地平線には陸地の山が、狭い青い帯のやうに見えてゐる。右の方にはラ・ペルウズ海峡の波がどこまでも続いてゐる。汽船は樺太を差して進んでゐるのだが、島の岩の多い岸はまだ見えない。
甲板はひつそりしてゐる。只舳の所に、月の光を一ぱいに浴て、水先案内と当番の士官とが立つてゐるだけである。船腹の窓からは弱い明りが洩れて、凪いだ海の波に映じてゐる。
この船は囚人を樺太へ送る船である。さうでなくても、軍艦は紀律が厳しい。それがこんな任務を帯びて航海するとなると、一層厳しくしてある。昼間だけは甲板の上で、兵卒が取り巻いてゐる中を囚人が交
前へ
次へ
全94ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング