れた。彼は、硝子をバタバタやった。ブーン、蜂のように勁い翅音で滑っこく冷たい散歩場から追立てられた熊蠅は、徐ろに上下左右、空中検察を行って飛ぶが、なかなか中央の薬紙には寄付かない。折々、嗅覚をそそられはするらしいが、その老練な経験で何かただならぬ人間の狡智を洞察しているといった風だ。
源一は、変にむきになって来た。大昔、彼の祖先が大和国の山野で鹿を追い廻した最中の微弱な遺伝を発露させ、源一は、蠅が右へ行けば左へ、左へ廻れば右へ手を振り、仕舞には新聞を畳んだのをまで加勢にして対抗した。自由自在に飛ぶ蠅を、広い空間の中で工合よく幅一寸の粘紙に追い込もうとするのは少し無理だ。彼は、方針を変えた。暫く放って置くと、予期しない運動で疲れた熊蠅は、上戸棚の敷居に翅を休めた。源一は、粘り紙の方を、今度は両手に持ち忍び足に近づいた。心の中での掛声。
「畜生!」
ジージュージュジュジー。源一は漠然と満足を覚えた。然し、熊蠅は、非凡な翅音を立てるだけ力があり、不意な、英雄的でない攻撃を憤怒して必死に翅を震うと、だんだん体の自由を恢復した。ちょうどもがく肢の処に一匹もうぴりりとも動かない小蠅の体があった
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