歩いて行く商標を張った小箱を持って戻った。彼は、ねばつく液をぬりつけた二寸幅に三尺もある薬紙を、電燈の処へ吊下げた。
 今日の晴天を嬉しがっているのか、孵《かえ》った蠅の若者達がこの世万歳と遊んでいるのか、追いつ追われつ敏活に翔び廻っているうち、一匹の蠅がいきなり薬紙にぶつかった。ジゥージゥー翅をならして飛び去ろうとするがもう駄目だ。源一がその様子を眺めているうちに、更に一匹くっついた。人間の子供が、夢中で鬼ごっこをし、「いやあ」と逃げ出すはずみに溝へころげ込むように蠅共は、ついと逸れる拍子に、紙へぶつかる。忽ち五六匹の蠅がとれた。どれも、充分育ち切っていないと見え、弱く、ほんの一寸翅を動しただけで、凝っと静に死んだように成ってしまう。源一は、面白いような、はかなく哀れなような気持がした。
 彼は二階の部屋へ引とるつもりで立ち上った。ふと、茶箪笥の擦硝子の隅に一匹、これは途方もなく強そうな蠅がのそのそしているのが目についた。体の大さなど、他のの三四倍あった。肢や腹に微細ながら黒く剛い毛が生え、蠅の世界の熊坂長範というようだ。――
 源一は、凶猛そうなその姿から一種動物的な挑戦慾を刺戟さ
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