。蠅は一向感情を動かさないらしかった。全然自分の目前に、源一の髭面が突出ているのさえ認めないらしい。源一は、劬《いたわ》りつつ口を尖《とがら》して蠅を吹いて見た。すると、別に遽《あわ》て騒ぐ風もなく二対のしなしなした脚を踏張って平然と堪えて見せる。小さな蠅はそういう時、一層自己の存在の真価を自覚した威厳を示すようでさえある。源一は、片肱にぐっと力をもたせ、左手の掌で掬《すく》う恰好をつけながら、じりじり四五寸のところまで肉迫し、颯《さ》っと横なぐりに蠅を捕えてしまおうとした。蠅は、ジ! と翔び去った。
源一は、くるりと仰向きになった。見ると蠅は、彼の新聞紙の上に止ったばかりではない。昨日は一匹もいなかった蠅が十匹近く、天井や電燈の周囲に群とんでいる。東向に肱かけ窓があり、隣境のトタン塀に烈しく反射する日光で四畳半はまるで明るい。蠅共はひどく、正午近いその明るみの中で腥《なまぐさ》く感じられた。源一は台所へ出て行った。
「こないだ、蠅取紙買って来ましたね」
「ああ」
「どこです」
「戸棚ん中にないかい、マッチの傍へ入れて置いたつもりだが」
源一は、二匹の蠅が糸に引ぱられて腰を曲げ曲げ
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