体の全体が見られるものなのであろうか。蠅は、人類という、地球上の共棲者に対しどんな概念をもっているのか。源一は、小学校の理科で蠅や蜻蛉《とんぼ》が複眼だということを教ったのを思い出した。けれども、どんな大さで対象を視覚にとり入れるかは聞いたことがない。蠅は蠅なりの寸法に、宇宙の原寸をちぢめて感覚しているのだろうか。
 彼は、好奇心を起した。人のよい薄笑いを浮べながら、彼は七八寸の距離で新聞紙の上にあった顔を、注意深くずーッと下げ、同時に両肱で体を少しずらせた。顎を新聞紙にのせちょうど顔の正面が、翅を擦ったり、鼻毛のような吸角を動かしたりしている蠅の頭と向い合わせになる位置にした。源一は、そして暫く様子をうかがった。彼は自分の大きい、薄髭の生えた青年の面が、小さい蠅にどんな感動を与えるか観察しにかかったのであった。彼は、昔は豚に騎《の》って上野の山を這って来た生徒さえある美術学校の学生であったから、自分のじじむさく髭をのばした黒い面が、蠅に与えるショックを研究することに、独特な感興を覚えたのであった。
 源一は、それだけは疑なく美しい二つの眼に強い期待を表して顔をつき合わせた蠅を見守った
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング