、折り返して1字下げ]
王 わしが今そちの事に心を配るよりいく倍もいく倍も多くわしの事にそちは心配してお呉れやったもののう。
[#ここから4字下げ]
老人は王の云うのには答えず。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
老人 母御の懐のむちゃにこいしゅうてござった頃貴方様はこの子守唄がおすきでのう。
美しい絹の帳をたれた揺籃をまだ血気でござったわたくしの白うて力のある手でおだやかな波の上を行く小船の様にゆーらり、ゆーらりとふりながらのう、貴方様。
母親のたまものの人に賞められた声で夜の来る毎にうたったものでござりまする。
[#ここから4字下げ]
ごく冥想的な低いかすれながら美くしい声で目をつぶってうたい出す、少し調子の後れ加減になるほどゆるく。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
寝ませ和子よ
水色絹の
帳の裡に
夢まどらかに
バラの香りと
小鳩の声の
夢の御国を
おとのうまで
ねませ和子よ
夢まどらかに……
[#「ねませ和子よの譜」の表題付きの楽譜入る(略)]
とのう。
したがあまり永く神のお恵を受けたので声がしわがれておねかし申した和子もこの様に御成人なされてわたくしがお寺の草の下に眠る様になればやがてこの歌をくり返すものもなく覚えて居るものさえなくなりまするでのう。
いとしい御方様じゃ。
[#ここから4字下げ]
王の心の中は老人の唄った子守唄から生れた何とも云えない一種の悲哀がみなぎって歌の余韻を追う様にうす暗い隅を見つめる。老人は何もかも忘れた様に大きな額を少しうつむけていつの間にか居眠って居る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 (老人のかすかないびきに驚いて)おう! もうねてじゃ。
まるで幼子の様に心持良さそうにいびきまでかいて居る……
誰か居るか!
小姓(部屋の隅から出て来る、いかにもねむそうな顔つきをしながら)陛下! お呼び遊ばしましてすか?
王 いかにも――
これ風を引くといかぬ。
わしが無理であったのう、部屋に参って暖かく寝むのじゃ。(老人を起す様にゆりながら云う)
老 わたくしが和子様とお呼び申しながらお起し申した様に貴方様はわたくしを御ゆすりなされたのう貴方様。
好い夢を御覧なされませ。
[#ここから4字下げ]
小姓にたすけられて下手から消える
王がたった一人になる。
さっきいいかげんに見たフランコニア公からの書きものを見る。
よんで居るうちに段々けわしい顔になっていきなりそれをさいてなげつけてしまう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 何じゃ。
神の御名によって□□□□[#「□□□□」に「(四字分空白)」の注記]と云い居るわ。
破門までうけた王をいただく事は体内を流れて居る貴族の血がゆるさん、と申し居るわ。
叛くなら心のままに叛くがよいのじゃ。
そなた達の軍にせめよせられて自ら喉をつくほどの意くじなしではないのじゃ。あわれなうじ虫共は口惜しまぎれの法王にそそのかされて裏に裏の心はようもさぐらいで只がやがやとわめいて居る――
[#ここから4字下げ]
王の亢奮した神経はあたりの静けさにつれて次第にしずまって来る。
しずかに考え深く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 只らちものうさわぎたてる愚者を兵力で押える事はわけもない事じゃ。
したがわしは兵を殺す事はよう望まぬのじゃ。
この先致さいではならぬ事が多い程にのう。
わしは一番良い方法を考えねばならぬ。
これ! 頭よ、
いつもよりまいてかしこくなってお呉りゃれ。
[#ここから4字下げ]
ややしばらく沈黙。
ゆるやかな歩調で部屋を歩き廻る。
雪が降り出した音がサラサラ……サラサラと響く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 やや、何と申す? あやまれ? これ頭よ! はっきりと澄んだ眼をよう見開いて答えて御呉りゃれ、わしはの、あやまる事は大のきらいなのじゃ。
人に頭を下げるのがきらいなのじゃ。これまでわしはそれを致さいでも事がすんで居ったほど賢うてあったのじゃからの。
[#ここから4字下げ]
前よりも粉雪の音ははげしく炉の火はすっかり絶える。
王は前よりも早くいらいらした調子に部屋を歩いて無意識にまどによる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 おお降るわ! あの降りしきる雪の様にわしの心にも快い智恵が降りつもって呉れる事をのぞむのじゃ。
[#ここから4字下げ]
王は低くうなる様に云って炉を見て急に寒さを感じた様にひろい衿をかきあわせる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 わしはさっきからもういつもになく永い間考えたのじゃ、
一つ事をしみじみとのう。
わしのいつもの頭は今日よりは賢くてあった筈じゃが今日はどこの隅をせせっても、
[#ここから2字下げ]
あやまれ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と不吉な声で申すより考えが顔を出さぬのじゃ。
[#ここから2字下げ]
あやまれ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と申すのじゃ、法王に――
わしの生れて初めてきいた言葉、今までに一番わしをおびやかいた言葉なのじゃ。
頭奴は斯う申し居る、
只謀じゃほんの一っ時の――
したがわけもないのに只あやまる――何と云う意志のない事じゃ。
意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪いまま母に育てられた可哀そうないじけた子のあやまれと云わるるがままに震える声で、
[#ここから2字下げ]
母《はは》様、御免
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と云うと同じほどのわけのわからぬ不甲斐ない事じゃ。
まま親が育てた子の不甲斐ないのは同情もいたさりょうが、王の不甲斐ないのは只世のもの笑となるばかりの事じゃ。
若しわしが、
[#ここから2字下げ]
あやまりまするじゃ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と一言申せば、あらゆるそしり、あらゆる下げすみをだまって聞かねばならぬのじゃ。
わしの母御はわしを育てるに心をお用いなされた、寒中の寒に堪ゆる事も暑さに堪ゆる事も又はせわしい仕事にたゆる事をお教えなされたのじゃ。
しかし、そしりをうけ、下げすみをうけた折にようこらえる術《すべ》は教えて下さらなんだ。又その様な汚らわしいものをよううけいでもすむわしだとお思いなされであったかも知れぬ、……
[#ここから4字下げ]
粉雪のサラサラ云う音はやんで本降りにソクソクとつもって行く。
遠くの方で――それでも城の内でかすかに俗謡をうたって居る声と笛の音がする。
王の声と様子は段々重くなやまし気になり時に吹く風に歌の声と笛の音は折々とぎれてはまた続く。
燈火が大変弱い光線になって三つのまどからどっかによどみのある青白い光線がさし込む。
王はしっかり右の手で左の腕を握って一箇所を見つめる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 あやまる?
いかにも口惜しい、事じゃ。
我と我が身を雲を突く山の切り崖《ぎし》からなげ出いて目に見えぬほど粉々にくだいてしまいたいほどじゃ。
今までによう味わなんだ、
[#ここから2字下げ]
あやまる
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と云う事を経験せねばならぬ時になったのじゃ。
わしは今まで、
[#ここから2字下げ]
あやまる
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と云う言葉さえ聞くのをようこのまなんだ。
それにかかわらず、その言葉の響きを一つ一つ聞き自らその味をなめて見ねばならぬ時になったのじゃ。
わしはなやましい折も気の狂わぬ頭と体をもって居る。わしの勇気は最後の勝利を得ようためにこのいまわしい思いも致して見るがよいのじゃとしり押し致いて居る。
そうじゃ思い切って、あやまるのじゃ。法王に謝すと思えばこそ、腹も立つ。わしのこの尊い頭に少し許りでもいまわしい思いをいたさせた事を己の頭に謝するのじゃと思えばよいのじゃ。
最後の勝を得るためなのじゃ。
謝したものが愚者じゃ負者だとは定められぬものじゃと云う言葉をわしが云い始める様にするのじゃ。
しがいのある事をすれば敵が一人ふえ、立派なもののうしろにはいつもみじめな影のさすのはきまった事なのじゃ。
わしはこれから「カノサ」に参って法王に会うて参らねばならぬ。
只わしを偉大なものに致すためにのう。
[#ここから4字下げ]
王は長椅子によって深い溜息をつきながら小さくまたたく燈火を見ながら極く低くつぶやく。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 わし自身のためじゃ、
最後の勝利を得るためなのじゃ。
[#ここから4字下げ]
首をたれて右の手でそれを支う。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]静かに幕
第二幕
第二場
場処
イタリー、サレルノの一農家(法王の仮居する家)
[#ここから4字下げ]
景 舞台の略《ほぼ》中央に、貧しいながらも白い清潔な帳を垂れた寝台が置いてある。
その囲りには古い家具が取りとめなくならんで、一番寝台に近い壁に十字架に登ったキリストの木彫が掛かって居る。
その他の壁には、色の分らないまでに古びた絵等をはり、出窓めいた窓の縁に小さい鳥籠が置いてあって、中には何にも居ない。新らしい野菜を盛った大きな盆が隅の方に明るい色をして居る。
品の好くて見栄えのしない法衣をまとった二人の若僧と、枯れた様な僧が一人寝台のすぐそばに居る。
二人の若僧は、大変に奇麗な顔をして居る。幕が上ると、一つ長腰掛《ナがごしかけ》に三人一っかたまりになって居る。
やがて第一の若僧が立って自分の肩のあたりをつかんで四辺を見廻して又座る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
第一の若僧 今日もまた、このまんま夜になっちゃうんですか?
寝つづけてお出遊ばすお師様の御夢を御守りして斯うやって居なければいけない――
私達の夢はどこの誰が守ってるんだろう。(低いうらめしい様な口調に云う)
第二の若僧 神の御試みに会って居るのだと思えばそれですべての事はすんで仕舞う筈なんです。このまんま死んで行っても神の御心にさえそうて居れば天に昇れる――
そうに違いないじゃあありませんか。
第一の若僧 私は死んでから天国に行く事よりも今都に居る事の方が望ましい。
神が天国をお教えなさるのも地獄をお教えなさるのもそれを恐れて生きて居る世を天国にして暮す様にさせ様ためになさった事だ。
[#ここから4字下げ]
第二の若僧は都をしたう心に堪えかねた様に部屋をしのび足に歩き廻る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
第一の若僧 まあ都へ帰る帰らないと云う事は別にしてこないだうちの事を思い出す毎にどれだけ、ほんとうに、今の身分が悲しいなさけないものに思われるんだか。
只考えて御覧なさい、あの時の事を。
雪が埋るほど積った日に、わざわざカノサまでヘンリー王があやまりに来た時の事をさ。
第二の若僧 ほんとうにあの時は今までになく目覚ましい事だった。(一人言の様に云う)
[#ここから4字下げ]
老僧は窓の処から外を見て動かない。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
第一の若僧 七日七夜、寒さと饑に眼ばかり変に光る王が尚威厳を保とうとしたあやうい足許でお師様の前に立った時――
ほら知ってるで
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング