胚胎(二幕四場)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欠伸《あくび》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|叛逆《むほん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
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時代
中古、A.D. 十一世紀頃――A.D. 1077―A.D. 1095
人物
グレゴリオ七世 ローマ法王
ヘンリー四世 ドイツ帝
老人 ヘンリー四世の守役を勤めた人九十以上の年になって居る。
第一の女
第二の女
第三の女
非番の老近侍
帝の供人同宮人数多
法王の供人数多及び弟子達
イタリー、サレルノの農夫の老夫婦
人民数多、及び不信心な遊び者
第一幕
第一場
場所
ヘンリー王の城内の裏手
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景 近侍達の住んで居る長屋体の建物の中央にある広場。
かなり間をおいて石の据置の腰掛が三つあって足の所に苔が生えて居る。
広場には一本も木がなく正面には三つほどの入口が見えて居て中央の一番大きい入口の左右の二本柱に王家の紋章が彫られて居る。
しおれかかった赤い花が一っかたまりその下に植えられて居る。
家の壁と石造の四角な煙突に這いかかったつたが赤く光って日光からそむいた側の屋根は極く暗くてそうでない方は気持の悪い様な変な色に輝いて居る。
木の彫刻の沢山ある小窓は開いたのと閉されたのと半々位で一つのまどには小鳥の籠が吊してある。広場をよぎって左右に道がついて居る。
一体に秋の中頃の黄色っぽい日差しで四方には何の声もしない。
幕が上ると中央から少し下手によった所に置いてある腰掛にたった一人第一の女が何をするともなしにつたの赤く光るのを見て居る。
かなり富んだらしい顔つきをして大変に目の大きい女。
深紅の着物のあさい襞を正しくつけたのをきて、白い頭巾をぴったりとつけて指にすっかり指環をはめて居る。
なかにも右の手の中指のはことに目立つ位まっさおでうす気味悪いほど大きい玉をつけた指環。
すぐ下手から第二第三の女と非番の老近侍が出て来る。
女達二人は極く注意した歩き振りでどんな時でも少し体をうかす様につまさきで歩く。
老近侍は大股にしかし気取った物ごし。
第二の女は深緑の着物と同じ形(第一の女と)の頭巾をつけ髪をかま[#「かま」に「(ママ)」の注記]っかく巻いて頭巾のそとに食み出させてよく光る耳飾りをする。
第三の女、第一の女と同じ色に縦に五本ほど太い組紐で飾りのついたのを着て頭巾は後の方のパッと開いたのをつける。
非番の老近侍は茶の上着を着て白と黒の縞のキッチリのズボン白い飾りのついた短靴をはいて飾りのついた剣をつるす。ふちのない上着と同色の帽子についた王家の紋章が動く毎に光る。
第二の女の声は陽気で、第一第三の女はふくみ声でゆっくりと口をきく人。
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第二の女 まあ! ここにいらっしたんでございますの?
おさがしして居たんでございますよ。
第一の女 あらそうでございましたか。
大変お気の毒様な事を致しました。
私さっきからここに居たんでございますの。
あんまり静かな日でございますものねえ家の中に居るのは惜しゅうございますわ。
第三の女 丁度いいあんばいに日光をうけてつたが燃えそうでございますわねえ。
まあ□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]一寸御覧なさいまし、少しでも雲が動くともう色が幾分かかわるんでございますよ。
あきませんわほんとうにいつまで見て居ても……
第二の女 まあほんとうに奇麗でございます事。
でももうやがてに冬が来る前知らせなんでございますわ。
ろくにあかりの入らない部屋の中で毎日毎日嵐の音をききながら寒さにめげて火の傍に置いてやってさえも鳴かない小鳥のふるえるの見ながらはだかの木の芽のふくれる時ばっかりまちかねて居なければならない冬がもうすぐ参りますわ。
第三の女 それにねえ、私は人様より倍も倍ももの寒がりなんでございますもの。
もう冬と云う声をきくとすぐこう、ぞっとしてまるで風でも引いた様になりますの、貴方様なんかよけい冬がおきらいでいらっしゃいましょう。(老近侍に向って云う)
老近侍 神の御恵でござるじゃ、一向に冬をつらいとは思いませんでの、息子達が止めさえ致さなんだら雪なげなり何なり十五六の子に交っていたすでの。
第一の女 何よりな事でございますわ。(低く陰気に云う。間を置いて地面を見ながら)私は冬よりもっと恐ろしい、そしていやらしい事をききましたの。
冬の来るのも寒くなるのも忘れて心配して心細がって居るんでございますわ。
世の中にたった一人にされた様にねえ。
第三の女 そんな事が? 私は一寸も知りませんの、きいた事だってないんでございますの、ましてこの頃は母のそばで仕事ばっかりして居るんでございますもの毎日毎日。
第二の女 私だって――もう此頃は一寸も心配な事は何にもないんでございます。
あの子の病気がなおりましてからはねえ、心配の仕じまいをしたと思って居りましたの、お坊様にさえ来ていただいたほどでございましたものねえ。
お話しなさって下さいましな、気になりますわ。
第一の女 私だって只きいたばっかりの事なんでございますけど……
昨晩でございますわ。
もうお月様がお沈みなさった頃、たくで御前から下って参りましてねえ。
私の顔を見るなり斯う申しましたの。
「陛下は大変御不機嫌でいらっしゃる、何か事が起るにきまって居るわ。あらましの事は知って居るが――」ってね。いろいろにききましたが頭が小さく生れついた女だと云うのでそれより外申しませんでした。
今朝町に参った若い者は、町中のものが、
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良いおねだんの張った馬がさばけるし、武器の御注文は間に合いかねるほどだ
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と申してお城の様子をきいたものさえあると申して居りましたの。
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老近侍はだまって女達の話をきいて居る。
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第二の女 まあ――、初耳でございますわ。
こんないやらしい事をじかにきかなかったのがまだしもの事でございますわ、ほんとうにねえ――
第三の女 あんな馬鹿な心配をしたと笑って仕舞う取越苦労だったら、どんなに嬉しいでございましょう――けれどそうは行かない事かもしれませんわ。
一体お相手はどこの王様なんでございますの。
若しお国そとに居る裸で真黒な顔をして居ると云う話の野蛮人となら私はかてるにきまって居ると信じて居りますわ。
そのきたない人間達は鉄の鎧なんか持って居りますまいもの。
ねえ貴方、ほんとうにお相手はどこの王様でいらっしゃいますの?
第一の女(極く低く細い声で恐る恐る云う)法王様でございますわ――
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二人の女はだまって顔を見合わせる。暫時沈黙。
うめく様に非番の老近侍に云う。
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第二の女 貴方……殿方でいらっしゃいますわ。
恐ろしい事にも度々お出会になった御方でございますわ。
私達の驚かない様にしずかにわけをお話しなさって下さいませな。
これだけの事を知って故を知らないのは尚恐ろしい気持がいたしますもの。
老近侍 荷の勝ちすぎるお望みじゃ……。が、ま、かいつまんで申せば法王様はあんまりお調子に御のりなされたと云うものでの。
お徳をあがめるものは日増にふえて御領地は日ましにひろがる法王様の御声がかりなら死ぬるのは欠伸《あくび》するより御安い御用と思うものが沢山になると陛下が、
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お前を法王に任ずる
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と仰せらるるのがお気に入らんでの。
第一の女 お気に入らないからと云って。
第二の女 お徳の高いお方だと伺って居りますもの。
まさか御|叛逆《むほん》ではねえ。
老近侍 もう、ずんと前からの事じゃと申す話でござるわ、陛下にお書面でお坊様のお役をきめる事はわしにさせて下されと申し越されてお出でなされたのはの。二三度までのお願にはお偉いお方じゃ程に陛下もおだやかに「ならぬ」とばかり仰せられていらせられたが度重なる毎にはお二人のお心が荒立って、
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力ずくでも
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と法王様がついお洩しになったのをお気のつかぬ間に陛下がお伝え知りなされたのが事の始りで今ではもう火をかけた爆薬《はぜぐすり》の様にまことにはや危い御様子じゃとな……。何せ苦々しい事でござるわ。
第三の女 神様は敵を愛せと仰せられていらっしゃいますのに……
老近侍 それが人間と云う名から逃れられぬ証拠でござるわ。
まして強いもの同志の「けんか」は昔からともだおれときまって居る事での。
第二の女 法王様は神の御子だと聞いた事がございますわ。それで人なみ以上の御力をお持ちだと――若しお二人の間にお争いでも起ったら悲しい事だけれ共勝は法王様にお譲りなさらなければならないでございましょうよきっと――
第三の女 この立派な御城も粉々になって仕舞うでございましょうよ、神様の御怒りと法王様の御心でねえ。そうしたらまあ私達はどこに住むんでございましょう。
雪の降り込む、風のひやびやと身にしみる丸木小屋に住ってふるえながら神様がお召になるまで泣きながら暮らさなければなりませんわね――
死んだ子の年を数えるよりもっと無駄とは知りながらもお城の中での楽しかった暮しを思い出さなければならないんでございますわ。
第一の女 私はお二人のどちらがおよろしいのか又どちらが御悪くていらっしゃるのだかそんな事を定める力はございませんけど、法王様がお怒り遊ばした――と云う只そればかりがもうたまらないほど恐ろしいんでございますわ。
法王様がお怒り遊ばした――神様だってお怒り遊ばしたに違いございませんわ。
まあ私は何をお祈りしていいんだかそれでどなたにおすがり申上げたらいいんだろう。
老近侍 皆様御自分にお祈りなされ、御自分におすがりなされ。世の中に自分ほどたよりになるものはござらぬわ。
法王様も――又陛下も、御自分の御力を偉大なものだとお信じなされたればこそこの事も出来たのでのう。
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三人の女は一っかたまりになって青い顔をして屋根の方を見、老近侍はだまってその三人の女を見る。
二人の若い男が家の影の方から走って来て四人の前に立ちどまる。女達は急に取りつくろった様子をして顔を男の方に向ける。
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若者の一 奥様方に申上ます。法王が城にお見えになりまして只今中門から此処をお通りなされると申す事でございますから……
若者の二 左様御承知なさいませとの事でござります。
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若者去る。
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第一の女 さぞまあ武士を沢山お連れ遊ばしてでございましょうねえ。
第二の女 さっととぎすました剣を捧げて居るんでございますよ。
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第三の女、二人の間にわり込む様にはさまる。
四人ともだまって何も見えない下手を見る。
笛の音が段々近づく。人の足音も響いて来る。
三人の女は云い合わせた様にかたまって家のわきにピッタリと体をもたせかけてお互に手を握り合う。
老近侍は一人はなれて反対の側に立つ。
小さい旗をもつ二人が先ず姿を見せる。大きく煙の立つたいまつをもった男二人、二十人ほどの武士のあとから飾りたてた白馬に乗った法王が現る。
真白い外套が長く流れてひげも眉も白い。頸から金の
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