したかのう、まるで十年も前に見た夢の様に思い出す事さえよう致しませなんだ。
 この貴方様にその様な事を申上たのも忘れて居ればこそ、さもなくば思い出す事がある毎にあまりの申上かたに御目にかかる事さえ出来ぬでござりましょうのう。
王  しかし、この様な思い出は考えたくもない事をしみじみと考えなけらばならぬわしをこの上なく慰めて呉れるでの、そしてその時だけもその時の罪のない幼子の心持で居らるるのじゃ。
 一番罪の深いのは「王」と名のついた者と昔からきまって居るのじゃ。
 法に随って大勢のためには老先の長いものの命も縮むるし威を守るためには又心にもない荒立った事をしなければならぬのは「王」と云うものの一生の仕事としなければならぬ事でのう。
老  のう、貴方様、下郎は、武士の身を、お主に捧げた自分のもので自分のものでない命を持って居るのは思わいで、
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武士であったらなあ、
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 と思いますものでの。
 武士は明け暮れ血眼で居らねばならぬ諸公の身分をうらやみ、諸公は王をうらやんで、すべてのものに仰がるる王は又神をうらやみ、下っては只一振りの剣が命の武士をうらやむと申すのは神でのうてはわかり得ぬほどいつの世にも変らぬ不思議な事の一つでござりますのう。
王  しかし、それはいつまで立っても人間にはわからぬ事に違いないのじゃ。
 神の御領内にあまり人間の手の届くのは良くない事だからのう。
老  この頃は病をいやす薬が人間の手で出来る様になりましてのう。
 まことに結構な事でござりますのが人々達はその生を与える薬でまるで反対の末長うござるはずの命をちぢめる事をよういたしますのじゃ。
 まるで生き・死にを司っていらせらるる神の御力をうばうた様な事でござりまするわ。
 この世の中から化物や病が少くなりましてからは――夜の神の御殿の厚い扉の中に封じ込まれてじゃとも聞きましてござりまするが――
 悪魔はもそっと恐ろしい種を人々の心の中に植えつけましたと申す事でござりますじゃ。
 したが、私はあまりいこう年を取ったので悪魔奴見限って魅入らぬのじゃと若いもの共は申して居りまするがのう。
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王は淋しい眼つきをして燈心のゆらめくのを見つめる。老人は骨張ったしかし柔かい手で王の手をこすって居る。
窓の外に夜番の武人が持つ「たいまつ」の細長いほのおが二つ前後してかなりゆるゆるよぎって行くのが見える。
思いに沈んだ様に王は話す。
老人は王の体を静かに見上げ見下しして居る。
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王  わしはそなたが、わし位の年頃であった時の世の中の事は恥かしい位に何にも存じて居らぬのだ。
 覚えて居るだけでよいのじゃわしに話して呉れ。
老  古い巻物と同じにさぞ、とぎれとぎれでござりましょうがのう。
 私が貴方様を「和子《わこ》」とお呼び申して居った時より尚ずんと前の事でござりまするのじゃから世の中は今とは不思議なほど変って居りましての、今よりずんとわかり易う世の中の事のすべてが出来て居りましたじゃ。
 男も三つに分ければすべてがすみまして一つはやたらに「けんか」がすきでまるで「けんか犬」の様に人間さえ見ればかみついたり吠えついたりする御仁と次には「名誉」に寝るとから起きるとまでうなされるお人と、恋を恋して居るお人とでの。
「けんか犬」の様なお人は甲冑と武器と馬の手入にきも入りして甲冑の裏に「のみ」ほどの曇りがある、馬の毛並が一本乱れて居るがお気に入らなんで御家来衆を試斬りになされたもので、尊がられるお館毎の御台所をほっつきめぐってごみだらけの汗みどろになってござったのは名誉にうなされるお仁でござりましたのじゃ。
 御身なりと楽器と花束についやすお金で身代限りまでなされて文を送った婦人の門にパンのかけらをほおばりなされたり、歌う声をよくしようとて滝壺に座って歌ってござるうちに目がまわってそのままどこに行かれたか先のわからぬ様になられたも、フトもれきいた歌声とチラとかい間見た後姿に命がけでしのんで行かしゃったら思いもかけぬ御年よりで片目で菊石だらけでござったのに驚き様があまりはげしゅうてそのままはかなくなって仕舞うたお人は皆恋を恋してやりそこなったお仁なのでの。
 その頃は人間の用う言葉だけで話は通じ赤い色は赤い色で間違いなく見分けのついたものでござりまするのじゃ。
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この時小姓一人巻いた書いたものを持って来る。少し消えかかった薪をそえ燈心をとりかえ注意深く四方を見てから退く。
王は静かに巻物を開く。一寸目を通すとすぐ険しい目差しをして読むのをやめる。
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老人 いずこからでござりますの、めったに見ぬ紋章でござりますのう。が、もう幾度も見たので忘れて居るのかもしれませぬが。
王  何! わしの家来のフランコニア公からよこいたのじゃ。
老人 何と申し越してござりますの?
王  下らん事じゃ、人間の申す事を申しよこいたまでの事なのだから。そなたの様にもう年を取ったものはあまり人間らしい人間の申す事は聞かなんだ方がよいのじゃ。
老人 わたくしの様に年取ったものは人々が十怒る所は精いっぱい四つ位ほかよう怒りませなんだ、そのかわりうれしい事もたのしい事も同じほどの。
王  わしもじゃ、わしはあまり下らぬ事をききすぎたのでがさがさとまるで一日中流シ元で洗いものをする水仕女《みずしめ》の手の甲の様になった心を持って居るのじゃ。
老人 したがのう、貴方様。尊い身分の人にはわからぬ事でござりまするが、貧しい一年中一枚の着物をまとって人の門に物乞いするのを恥かしいと思う処が[#「が」に「(ママ)」の注記]なりわいにして居る下賤なものどもは母親の胎から鳴きながら生れて三年も立てば、いじけた、かたくなな心を持つと申しますのじゃほどに貴方様が下らぬ事をききすぎなされた事位はまだのう徳な事でござりまするじゃ。
 聞きたがって居るものにはおきかせなれるものでござります。
王  下手な文句を書《か》い連ねた腹立たしく拙い手紙ほど紙数は多いものじゃが、まあ、ざっとかいつまんで申せばの。
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貴方は法王から破門の宣告を授けられた。
法王の申した事もござるし又私としても死するより恥な破門をうけた王の命令を奉ずるのは神の御名を汚す事になるから同じ意見のものと皆かたらって命令は奉ぜぬ事に致した。
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 と申すのじゃ。
 叛逆《むほん》を起すにわざわざ知らせて寄こいたのじゃ。
老人 妙なものでござりまするの。
 まだ世の中には、けんかずきのけんか犬が沢山ござるのでござりますのう。
王  けんか犬は世が滅びるまで絶える事なくあるものじゃ。
 何――叛きたいものは勝手に逆くのがよいのじゃ。
 若気の至りで家出した遊び者の若者は、じきに涙をこぼしながら故郷に立ち戻るものじゃと昔からきまって居る。
 又わしはどんなにもつれた糸でも手際良くほごす力を授かって居るでの。
老人 いかな力がござってもわたくしは臆病のさせる事かもしれませぬが、けんかはきらいでござりますじゃ。
 口だけですむけんかはまあござりませぬ。下賤なもののけんかはけんかする同志がつかみ合う、蹴る、なぐる、やがてどちらか一方が鼻血でも出せば事がすみますがのう。
 広い領地を持ってござる方々のけんかはそう手軽には参らぬでの。
 つかみ合いがしたくなれば兵士を互に出してつかみ合わせ短気なものがあやにく斯うした時にはふえるものですぐに剣の柄に手をかければこなたもだまって居られず、恐ろしい様子をいたいてまるで互にけんかの当人ででもある様に突いたり斬ったり心のままに互に荒れて、同じく神のお作りなされた同胞の血まみれになってうめくのを笑いながら見て居りまする浅間しい様子を思うのはまことにいやな事での。
 修道院に若くて美くしい尼御前の大勢になるのもこの時でお寺の墓掘りの懐の肥えるのもその時でござりますじゃ。
 尊い御仁のけんかほど、大きい地面がゆるぎますでの。
 天にござる神々のけんかなされた時には――ずうっと幼ない時にききましたが、世が滅びてしまったとな――申す事でござりますのじゃ。
王  したが世の中はもとよりは事がそれぞれふえて参ったのじゃ。
 理のあるけんかは誰もとがめるものがないのじゃ。
老人 何の何の左様な事はこのわたくしが合点出来ぬ事でござりましての、もとから申しつたえてござる通り
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けんかは両制配
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 お互同志愚かだかりゃこそ、けんかが出来るものでござりまする。
 誰もとがめぬのは、けんかする人達より賢こいもののござらぬ証拠でのう、
 貴方様、
 うじ虫と、輝いてござる太陽のけんかしたのを聞いた事はただの一度もござりませんでの。
王  そちが申す通りなら、わしも法王も愚者《おろかもの》なのじゃ。
老人 わたくしはのう貴方様、
 この上なく貴方様で可愛いいのでござりまするでの。
 じゃと申して、まだお若かくていらせらるるので下らぬけんかをおこのみなされてのう、
 お叱り申すねうちもない様な又わたくしももうお小言を申す等の事にはあきましてのう。
 何々よろしゅうござりまするじゃ、貴方様はお利口なお方様でござりまするもの、わたくしはよろこんでおりますのじゃ。それからのう貴方様、まだ和子とお呼び申して居った頃の事での、
 お城内の腕白共がフト迷い込んで出る道を忘れたあほう鳩を捕えて足に石《いし》を結《ゆ》いつけては追ってよう飛ばぬ不様な形を見て笑って居るのをお見なされてその者達の所にお出なされて、
 もう王におなりなされた様な厳かなお声での、
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これ、お前達は何を致して居るのじゃ。この鳩は神にさずかった命を我々と同じ様に持って居るのじゃ、必[#「必」に「(ママ)」の注記]して苦しめてはならぬ。
お前達がその様に致されたら、どうじゃ。
早く石をのけて城の外までつれて参ってはなしてやるのじゃ。
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 と仰せられての。
 青い顔を致して居る子供をつれて鳩をおはなしなされた時にはもうわたくしは嬉しくて嬉しくて。
 「清い御心をお持じゃ、あのお柔しいお眼はどうじゃ。その上に又子供達をお叱りなされたお声のどうしてあんなに厳な威をお持ちなされてござったろう」とその晩はまんじりともようせいで笑いほうけて居りましたじゃ。
 貴方様がまだ辛[#「辛」に「(ママ)」の注記]やっと七つ八つの頃でござりましたもののう、お可愛ゆいまっ最中でのう。
王  わしはもう悲しい事に一つも覚えて居らぬのだ、それにその後間もなくわしは沢山学問を致さねばならなかったのでよけいに忘らされてしまったのじゃ。
 あまり早くから学者のむずかしい八の字だらけの顔を見たものの特典でのう。
老人 ああ、ああ、ぶしつけでござりますがわたくしはもう眠とうなりましたでの、居眠りながら貴方様とお話致すがまことにうれしいのでござる。
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大変年を取った老人は苦のない安らかな顔をして王の手を持ったまま長椅子の少し前よりもはじによった方に行く。
王の顔にはたえがたい苦痛の色が現れて居るがこの老人の話に幾分まぎらされて居るらしい様子。
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王  いくら暖いと申しても冬じゃ、意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪い風邪《かぜ》にとりつかれるといけぬわ。
老人 貴方様ばかりでのう、そう云うて下さるのも。
 ――――
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涙もろく老人はうるんだ声で云う。
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