ろそろとわしの心の臓を荒しはじめたわ、退《すさ》り居ろう。
 何の□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]わしは賢明なのじゃからの。紙に書いつけた文字は見た所だけは美くしいものじゃ。
 又見とうなくば破く事も焼きすてる事も出来るものじゃ。
 人間の怒った顔と申すものは世の中の一番文字の下手がかいたものより尚見にくうて、
 そうたやすくは、やきすてる事も出来んものでの。
 いっち人こまらせものじゃ。
法  鏡のござらなんだのがまだしもの事でのう。
王  いかにもじゃよ。
 わしはもう美くしい丁寧な言葉で話し居るのはいやになって参った。
 もう明らさまに正直に申すのじゃ。
法  そして早うきりをつけたがよいのでの。
王  もうとうにきりがついて居るのじゃ、わしの方はの――
 僧官の任命権を得ようとお事の致いて居るのはお事が人間である限り必ずそうも有ろう事じゃ。
 又わしが御事にそれを許すまいと致いて居るのもわしが人間である限り必ずそうあるべきはずの事なのでの。
 人間と申すものは高い低いにかかわらいで己の権内に歩みこまるるのをこのまぬものじゃ。
法  じゃが僧官の任命権等と申すものはもとより宗教の事でござるでの。
 一国の宗教の司の法王がそれは持って居るべきはずのものでのう。
王  法王と申すものは政治の極く小さい部分の宗教を司って居るのじゃ。
 国王はその国全体の政治その国の運命を握って居るのじゃと申す事は云わいでもわかって居る事での。
 わしの幾代か前の祖先、幾代か昔の皇帝の時からこの権は王がもって居ったのをわしの時に法王にゆずったと申いては、わしがいかにものう愚かな者の様に後の人達は思うのじゃ。
 心からわしが御事を偉い御方じゃと思うたらゆずっても進ぜようがのう、
 あやにくわしはよう思わなんだ。
 それ故にわしはならぬと申すのじゃ、許さぬと申すのじゃ。(少し力を入れて)
 わしは皇帝じゃ御事はわしの命令には服さねばならぬ。
法  貴方は皇帝だと申いて居らるる。
 したが「法」の力よりも、「神」の御力の偉大な事を御信じなされぬか。
 神の一声に世のすべての花はその蕾を開いて蝶は美くしい装いをこらいて舞い、雲雀は紫立つ雲の上に神の御力をたたえて歌いますじゃ。
 それを人は春と名づけ冬の寒さにめげたもの達の青白い頬にも血潮の華やかな色がさいのぼって、生のあるもののすべてに再び新な力のあたえられた時――
 愚なものにはよう見えなんだ神の御力をたたえ謝さぬものは御座らぬのじゃ。
 浅間敷くサタン奴に魅入られた欲心に後押しされて他人のものをことわりなしに我家に持ちかえった事をとがめられて、厳な司法官の宣告書にふるえの止まらぬ体をそのままただ一坪の四方は皆叩いても音の出ぬ石のただ一つ小窓の開いた牢獄につながれた時の罪人の、故里に待つ親しい者共の身を思い出いて流す涙はさぞ熱うさぞ多い事でござろう。
 したが只一人闇の中に座して己の四辺を包む闇の中にひびく責悪の声を身にしめてつくづくと己の罪を悟ゆる時声高に呼ぶのは誰の名でござる。
 救うて下されと祈るのは誰の徳をしとうてでござる。
 偉大《おおい》なる神の御名を呼び、
 高い神の御徳をしとうておすがり申すのでござるじゃ。
王  お事は大なる神の御そば近く居ると申いてわしの領分のうちにお事のその強い音を出す翼で走り廻ろうと致すのじゃ。
 わしは只己を信ずる許りじゃ。
 神によって奇蹟は現わるると僧侶達は申してじゃ、
 己を信じて己の力を祈って進んだ時にばかり驚くべき奇蹟は現れるものじゃ、神の御子じゃと申いて居るイエスは深く自分を御信じなされた。
 己を深く信じて行われた事は奇蹟となって現れ水を酒ともおかえなされ又|盲《めしい》たものに再びこの世の光りをおあたえなされる事も出来たのじゃ。
 世の中に己ほど尊い偉大なものはないのじゃ。
 わしはいつでも己と云う尊い名をたたえ、
 己と云うものの力にすがるのじゃ。
 己の声はお事の望を、
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許いてはならぬ!
叶えてはならぬ!
[#ここで字下げ終わり]
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 と申いたのじゃ。
法  位と云うものは極く形式的な事でござりながら人はそれを尊びまするじゃ。矩を越えぬ形式はすべての事に大切でござる。
 皇帝でさえ有れば素足に只一枚の衣をまとって居っても皇帝には違いのうてもその威を保つために形式的な厳かな冠もいただき目立つ衣もまといますのじゃ。
 それと同じ法王となれば並の僧侶と同じ黒い衣をまとうてもよいのを只形式ばかりの白い衣を着、その威を保つためにはいろいろの権を持たねばなりませぬじゃ。
王  形式は人間のために作られたものでの、人間が形式のために造られたものではござらぬよ! 人間は形式を自由に致す力を持って居るはずじゃ。
 何せわしは御事が毎日毎日神をお説《と》きやってわしの息をひきとるまでお説やっても心はかわらぬのじゃ。
 許すとは申さぬじゃ。
 根くらべを致いて居るも、そうあきの来るほど長い事ではござらぬじゃ。
 お互に千年とは生きられぬ事じゃほどにのう、土面の中で、うつろになった眼《まなこ》を見はって機嫌のよい娘の様に明けても暮れても歯をむき出いた口で云いあいながら根くらべを致す事はござらぬじゃろうからのう。
 またたってお事が許いて欲しくば偉うお事をお守りなされる神に願うて不死の薬なりいただいてわしの十代あとの皇帝に許いておもらいなされ。
[#ここから4字下げ]
王は静かに立ち上って音もなく供人にかこまれて中央の扉のかげに消える、舞台には法王の群一つになる。
間もなく下手の扉をあけて小姓が一人手に書きものを握って入って来る。
法王に渡すと一目見て口に氷の様な冷笑をうかべる。
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法  斯う御返事なされ、
 有難う頂戴致す。
 したがわしは幼いうちから礼儀をきつう育てられたのでの、これに御答え致すためには王に一言申したいのじゃが、口で申さぬかわり、相当な御返礼と思うてこれをさしあげるとな。
 又御目にかかる日もそう大して遠くはあるまいと思って居る、
 と足して申したとな、おつたえなされ。
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法王は落ついた手つきで外套の下から巻いたものを出して小姓にわたす。
小姓はそれをうけとると一足急にさがって、
[#ここで字下げ終わり]
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小姓 法王様!
 これは破門の宣告状でございます、
 陛下に――
 お間違いだろうと存じます。
法王 盲にも、目くされにもなって居らんでの。
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小姓はすくんだ様に下を向いてそこに立つ。
[#ここで字下げ終わり]
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法  馬の用意をいたいて呉れ。
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法王の供人一人下手から去る。
[#ここで字下げ終わり]
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法  若い人何もその様におどろかぬとも良いのじゃ、王はわしに廃位の宣告状をお送りなされた御礼じゃもの。
 ちとかるすぎるかも知れぬが、わしは貧しゅうてそれ丈のものほかもって居らなんだ。
[#ここから4字下げ]
法王の群はしずかに動いて上手の戸口から入ってしまう。
舞台には小姓一人のこって、法王の出て行った方をしばらく見つめて、
やがて深い溜息をついてから反対の戸口――下手からひきずる様な足つきをして退く。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]幕

    第二幕

     第一場(前幕より三ヵ月後冬も十二月に近い頃の事)(A.D. 千七十七年頃)

    場所
  ヘンリー四世の城内 王の居間。

[#ここから4字下げ]
景 そんなに広くない構えで四方に海老茶色の布を下げてある。
左右には二つ並べて大きく先王と王妃の像を画いた額がかかってその下に火が燃してある。
今のストーブとまでには発達しないごく雑な彫刻のある石板で四方をかこんだ窪い所に太い木の株を行儀よくかさねてある、その木と木の間から赤い焔が立ちのぼる。
反対の側には槍や剣。甲冑が厳めしく行列して居る。
中央には卓子が有って王の手まわりのものをのせる。
中心からかなりずれた所に燃える火をはすにうける様にして一つ長い腰掛があって上から長く重くて厚そうな毛皮をかけてある。
窓の小さいのが三つ位開いて単純な長方形のガラス越に寒そうな青白い月光の枯れ果てた果樹園を照らしてはるかに城壁が真黒に見える。
長椅子からよっぽどはなれた所に青銅製の思い切って背の高いそして棒の様な台の上に杯の様な油皿のついた燈火を置いて魚油を用うるので細い燈心から立つ黄色い焔の消えそうなほどチラチラする事が多くうすい油烟が絶えず立つ。すべてよっぽど更けた夜の様子。
幕が上ると王と守役を勤めた老人が長椅子に一緒に腰かけて居る。
王は冠をつけず寝間着の様な袖口の極くゆるい、長から下まで一つづきの深緑の着付。
手に沢山指環をはめる。少し疲れたらしい眼色とわだかまりのある眉の様子。
老人、もう九十以上の年で髪も眉も皆白くてつやつやしいおだやかな様子で真白な毛のついた足一っぱいの上着をつけて首から小さい銀の十字架をつるす。
王の親の様な心持で只やたらに可愛と云う気持。
[#ここで字下げ終わり]
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王  月があまり美くしいので都娘にフト出会った百姓娘の様にいろいろなものは皆黙って居るわ。
老  ほんに静かでござりますのう。
 私がまだねんねえで世間知らずの愚者でござった頃にはこの様な晩に出会う毎に寝間着のままで床にひざまずいて、僧正様のお祈りよりもそっと長い文句をくり返しくり返し血迷うた様に繰返してわけもない涙を身の浮くほど流いてのう貴方様、長い一夜をまんじりともようせんで明る日は藻抜のからの様に我れと我が脛等をつねってようやく血の通って居るのを知る様な事を致して居りましたものでのう。
王  今はその様な楽しみもないのにこの様におこいて置くのはあまり気ままじゃの。
老  何の、何の貴方様、どうしてその様な事がござりましょう。
 私の様な、長あく長あく、神様がお召しなされるのをお忘れなされたのかと思うほどこの世の中の事を見て参るとな、人の我儘を申してござるのも無理を申して居らるるもその様に気にはならなくなるものでござりましての、それだけ我れも我儘も無理も申す様になって参りますのじゃ。
まいて貴方様は母君をおいては私が一番お小さい頃から何から何までお世話を申し上げたお方様じゃほどに何を仰せられても何とか存じ様と致しても出来ぬほどでござりましてのう。
王 いかにもじゃ。
 わしが一番そなたと申すものは恐ろしい人間じゃと思うたのは今でもよう覚えて居る。
 秋の初め頃わしが白い着物を着てリンゴの木にのぼって枝にのぼって皮のままに大きな実をたべて居るのをそなたが見つけてのう、
 不意に斯うどなったのじゃ。
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そこに居るのはどこの下郎の子じゃ、
早う下りて参れ、折檻してつかわす。
[#ここで字下げ終わり]
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 とな。
[#ここから2字下げ]
そなたの主人じゃ、わしじゃ。
[#ここで字下げ終わり]
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 と幾度申しても、
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いくらお小さくても皇帝におなりなされるお方は木にはおのぼりなされても下郎の子の様にかくれ食い等はなさらぬものじゃ。
もそっとお身を貴くお思いなされるものじゃ。
必[#「必」に「(ママ)」の注記]してわしのお主人ではないのがリンゴの皮のきたなく落ちて居るのでわかるのじゃ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
 と申していつまでたっても立って居って、やがて向へ参いった時にこっそりと逃げて部屋にかくれて居った事があったのでの。
老  その様な事もござりま
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