しょう、
あんなに奇麗な外套には泥の「しみ」がいっぱいついててねえ。
真青な顔の上に髪が乱れかかったあの王の前のお師様はほんとうに立派だった。
濡れた着物のまんま私共をにらみながら、
「仲なおりをしよう」と下手に出ておっしゃた王の眼は、今思い出せば随分謀み深い色だったけど――
ねえその時に、そんな事に気のついたものが一人だって有っただろうか、きっとなかったに違いない。
私達は、あんまり上熱《のぼせ》すぎたんだ。
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二人は顔を見合わせて淋しく笑う。
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老僧 お得意になってか――
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向うを向いたまんま云う。二人はフット口をつぐむ。それから又話しつづける。
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第二の若僧(声をひそめて)ねえ私達はほんとうに巧く「わな」にかかった。
ほんとうに巧者にだまされてしまった。
震える身をじかに床に御据なさって、「もう仲なおりの時が来たのじゃ」と王がお云いなされた時の御師様は――まるで登る朝日の様にお見えなさった。
けれ共斯うやって都から追われて仕舞っては、私はもう末に望はちっとも掛けられない気持がする。
第一の若僧 私なら一度ゆるした者を又諸侯にそそのかされて罪しようなどとは思わないだろうのに――。
そしてあべこべに都を走らなければならない様な事はすまいのに――
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重苦しい沈黙がしばらくつづく。
老僧は時々白い寝床の裡をのぞき見する。
一つ腰掛に三人は別々な処に眼をやって違った事を考えて居る。
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第一の若僧 又暮方になる。
そうすると村の人共はお祈りを戴くためにあんなに押寄せて来る。
あのきたない、さわがしい様な群をお師様はよくもまあ御こらえ遊ばす。
第二の若僧 お師様の御徳の高い証《あかし》だもの。
第一の若僧 ほんとうにそうなら、お徳が高ければいやな事がふえる――
今より私は偉くなりたくない、云いたい事さえ云えなくなる――
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舞台は又、沈黙にかえる。
第一の若僧は何か聞えなくつぶやきながら一直線に行ったり来たりする。
時々一方を見つめては眉をひそめて、手と手とをもみ合せる。
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第一の若僧 私はどうしても都で死にたい。
いくら私が斯うした身になったと云ったって私の年がまだこんな淋しい処で死んで仕舞うのを満足しないんだもの、ねえ、……
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第二の若僧を見て同情を求める様な口調で云う。
第二の若僧は老僧のそばにぴったりとよって聖書を握って居る。
その二人を第一の若僧はじーっとややしばらく見てから、首に掛けて居た十字架を傍にはずして部屋を出て行く。
第二の若僧は老僧の顔をチラット見てそのうす笑いをたたえて居るのを驚いた様に口の中で何か云って自分の胸に十字を切る。やがて寝床の裡で人の身動く気合[#「合」に「(ママ)」の注記]がして、かるい、力弱い、せきばらいが静かな裡に骸骨踊りの足音の様に響く。
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第二の若僧 お目覚になった――
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帳をか[#「か」に「(ママ)」の注記]ける。
やつれた、情ない姿の法王が半身を起して現れる。
老僧はその姿をまじまじと見ながら、
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老僧 よう御休みなされました。
いかがでございますか? 御気分は――
法王(力なく――なつかしそうに)大層よいのじゃ。
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第二の若僧が煙りのほそくたつ薬を持って来る。
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第二の若僧 お師様、
お薬を煎じて参ったのでございます。
どうぞ召上って――
法王 いろいろといかい御手数じゃ。
したがの、わしは今日《きょう》はもう、せっかくじゃが、薬は、いらぬのじゃ。
第二の若僧 どう遊ばしてでございます、
せっかく煎じて参りましたのに――
法王 心尽しは、存じて居る。
私《わし》の召されるのは必ず、今日に違いないと申す事を、わしは知ったのじゃ。
今まで、授かった、安らかな、快い眠りは、神のやさしい御心で、この世の、最後の眠りを楽しゅうさせ様がために下されたものなのでの、
わしは、久しい間神にお召[#「召」に「(ママ)」の注記]をして居たほどに誤たない神の御心を伺う事が出来るのじゃ。
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第二の若僧は暗い表情をうかめて力無く、薬をわきに置くと偶然さっき、第一の若僧の置いて行った十字架にさわる。
指でつまんでそうっとわきにどける。
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老僧(理智的な眼つきと口調で)澄んだ正しい御心が、それはお感じなされた事でございましょう。
そして又、それは、最も幸福に御成りなさる道でございます。
第二の若僧 お師様。
ほんとうの御心で仰せられるのでございますか?
私などは、死ぬ事より恐ろしい悲しい事は無いと存じます。
あの暗くてじめじめした塚穴に入れられるのかと思いますと――
死ぬ、その時になっても私は、「生きたい」と申すでございましょうきっと。私はちっとも無理な事ではないと存じます。
法王 まだ若いからじゃ。
世の中に死ぬより恐ろしい悲しい事は有るのじゃ。
「生き過ぎた」と申す悲しみより、「死」の悲しみはうすいのじゃ。
わしは少し、「生き過ぎた」仲間なのでの。
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第二の若僧が又何か云おうとすると下手の雑な彫刻をした扉が細く開いて遠慮深くここの主夫婦が出て来る。
目立たない――、それでも内福らしい着物に老婆の小指の指環が一つ目を引く。
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老爺 いかがでござらっしゃります。
先ほど、お薬を煎じしゃった火が大方強すぎた事んだろうとの、婆《ばあ》がいかい事案じて居りまする。
婆 ほんにお坊様《ぼんさま》。
このほうけ婆が、ついうっかり薪をそえたで、常より苦うでござらしただろうかと案じましたので、おわびに出ましたでござります。
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老僧話して居るつもりだけれど声は高いし一つ部屋なので法王に話すと同じ事になって仕舞う。
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婆 (人の好いおしゃべりの口調で)それにの、お天とう様の、のぼらしゃった頃からつめてござらした衆が一刻も早くお尊《たっと》い法王様をおがみたいと云うてでござりましての。
そらな、おききなされませ、
あの広場での人声がここまでどよんで参りましょうが。
老僧 しかしね、
どうしたって今日は駄目ですよ。
大変お疲れ遊ばしてだし第一今御目ざめなすったばっかりなんだから、
「明日」って云ってお帰しなさい。
その方がいい。
法王(老僧の背後から声をかけて云う)これ婆さん。
わしはよろこんで会うからここへお呼び。
老爺 お勿体もない御方様へ申します。
何にもその様に、今日に限ったことはござりませぬ。
三日も立ちましたならおつむりも軽くなる事でござりましょうから、その時にせいと申します。
それがよい。のう婆。
老婆 そうの事、そうの事。
それがいっちよい。
都にござらしてお歴々のお方の前へ度重ねてまかったものとはずんと違うて、お勿体もない、かたじけない、と思うと涙をらちもなく霑《こぼ》すのと、他愛もなく笑いこける事より存じませぬ者ばかりでござりますもの。
法王 わしはそれがうれしいのじゃ。
早く呼んでお出。
老爺 ほんに有難いと申しても足りぬほどじゃわい。先祖さえよう持たぬ老ぼれ爺《じい》が、法王様からお言葉なんかいただくちゅーは。
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大きな手で信心深さに流れ出した涙をふきながら、
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老爺 そんなら、そう致しますだ。
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二人は戸口から去る。間もなく静かに沢山の足音がして日曜に着る着物を着た男女が多勢出て来る。
人々は戸口に恐れた様にひざまずいて仕舞うのを法王は泣く様な無理な笑顔をして居る。
老爺が群の一人に何か話すわきからせかせかしながら、
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老婆 ほんのこったぞ。
これ皆の衆。
御勿体ない、法王様は御病気でござらしゃるだに皆を祝福してやるとこらえてああやってござらしゃる。常ならば、はるばる参らねばお衣のはじさえようおがめぬに斯うやって――
ああ、ああ、ほんにほんに――
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第二の若僧に手を引かれて一番先に居た老人が法王の前にひざまずく。
細かく体をふるわして居る。
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老人 はあ、恐れ多い事でござりまする。愚か者がしらぬ間に犯した罪はさぞ数多いことでござりましょう。
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法王はやせて骨の目立つ手を老人の毛のうすい頭にのせて黙祷する。
それから順々に二言三言感謝の言葉をのべるものや、中には狂的に法王の手を接吻したりさすったりして祈るものがあるかと思えば、身の浮くほど泣くのも居る。
十九番目に母親に抱かれて法王の前にすわった小さい男の子は起ちあがるとすぐ、
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阿母《かあ》ちゃん。
ひやっこい、かたいお手々《てて》だよ!
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と叫ぶ。母親はすぐその子の頭を胸に押しつけて仕舞う。
それと同時に扉が静かに開いてキョトキョトした落つかない口調で老爺が云う。
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老爺 只今のお坊《ぼん》様、ヘンリー四世とか云う王様から偉う、いかめしい身なりのお使者が見えましたで。
御病気であらっしゃると申したら、大きな声で、
「それを聞きに参ったのではない」とこの爺《じい》を叱りましたじゃ。
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人々の群の裡からヘンリー四世の名を聞いて罵のつぶやきが起る。
成行をわずらう様に僧の顔をのぞき込む者の数が多い。老僧は法王の考えを聞きもしないで老爺を先にたてて無言のまま出て行き、祝福は今まで通りつづく。
かなり時が立ってから老僧は渋い苦しい顔をして入って来る。
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老僧 お聞きなさいました通り王から使者が参りました。
今になって使者をよこす王の心も大方はわかって居ります。
私はお疲れで会えないと申しましたらば、
悪智恵にたけた使者は、
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あの偉大な法王が修業のたらぬ騎士の様な事を仰せらるるはずはござらぬ。
傍の者の愚な、計らいからじゃ。
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と申します。
貴方様の御心にそむく事が有ってはと存じましたので、あちらに待たせてあるのでござります。
法王(疲れながら、はっきり力強い口調で)こちらへ――
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若僧はぴったり寝床のそばにより、人民は一隅に出来るだけつめて座って、立って居るものはつま先だてて、壁にぴったりとすりよって居る。
小児達は母親や父親の首へしっかり抱きついて動かない様な不安な瞳を扉に向ける。
老僧を先だてて使者が入って来る。
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使者 ヘンリー四世の使者として王の御伝言を申し□[#「□」に「(一字分空白)」の注記]ます。
「わしは今度の出来事によって両親から授かったより以
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