方がいい。
法王(老僧の背後から声をかけて云う)これ婆さん。
わしはよろこんで会うからここへお呼び。
老爺 お勿体もない御方様へ申します。
何にもその様に、今日に限ったことはござりませぬ。
三日も立ちましたならおつむりも軽くなる事でござりましょうから、その時にせいと申します。
それがよい。のう婆。
老婆 そうの事、そうの事。
それがいっちよい。
都にござらしてお歴々のお方の前へ度重ねてまかったものとはずんと違うて、お勿体もない、かたじけない、と思うと涙をらちもなく霑《こぼ》すのと、他愛もなく笑いこける事より存じませぬ者ばかりでござりますもの。
法王 わしはそれがうれしいのじゃ。
早く呼んでお出。
老爺 ほんに有難いと申しても足りぬほどじゃわい。先祖さえよう持たぬ老ぼれ爺《じい》が、法王様からお言葉なんかいただくちゅーは。
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大きな手で信心深さに流れ出した涙をふきながら、
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老爺 そんなら、そう致しますだ。
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二人は戸口から去る。間もなく静かに沢山の足音がして日曜に着る着物を着た男女が多勢出て来る。
人々は戸口に恐れた様にひざまずいて仕舞うのを法王は泣く様な無理な笑顔をして居る。
老爺が群の一人に何か話すわきからせかせかしながら、
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老婆 ほんのこったぞ。
これ皆の衆。
御勿体ない、法王様は御病気でござらしゃるだに皆を祝福してやるとこらえてああやってござらしゃる。常ならば、はるばる参らねばお衣のはじさえようおがめぬに斯うやって――
ああ、ああ、ほんにほんに――
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第二の若僧に手を引かれて一番先に居た老人が法王の前にひざまずく。
細かく体をふるわして居る。
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老人 はあ、恐れ多い事でござりまする。愚か者がしらぬ間に犯した罪はさぞ数多いことでござりましょう。
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法王はやせて骨の目立つ手を老人の毛のうすい頭にのせて黙祷する。
それから順々に二言三言感謝の言葉をのべるものや、中には狂的に法王の手を接吻したりさすったりして祈るものがあるかと思えば、身の浮くほど泣くのも居る。
十九番目に母親に抱かれて法王の前にすわった小さい男の子は起ちあがるとすぐ、
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阿母《かあ》ちゃん。
ひやっこい、かたいお手々《てて》だよ!
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と叫ぶ。母親はすぐその子の頭を胸に押しつけて仕舞う。
それと同時に扉が静かに開いてキョトキョトした落つかない口調で老爺が云う。
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老爺 只今のお坊《ぼん》様、ヘンリー四世とか云う王様から偉う、いかめしい身なりのお使者が見えましたで。
御病気であらっしゃると申したら、大きな声で、
「それを聞きに参ったのではない」とこの爺《じい》を叱りましたじゃ。
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人々の群の裡からヘンリー四世の名を聞いて罵のつぶやきが起る。
成行をわずらう様に僧の顔をのぞき込む者の数が多い。老僧は法王の考えを聞きもしないで老爺を先にたてて無言のまま出て行き、祝福は今まで通りつづく。
かなり時が立ってから老僧は渋い苦しい顔をして入って来る。
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老僧 お聞きなさいました通り王から使者が参りました。
今になって使者をよこす王の心も大方はわかって居ります。
私はお疲れで会えないと申しましたらば、
悪智恵にたけた使者は、
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あの偉大な法王が修業のたらぬ騎士の様な事を仰せらるるはずはござらぬ。
傍の者の愚な、計らいからじゃ。
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と申します。
貴方様の御心にそむく事が有ってはと存じましたので、あちらに待たせてあるのでござります。
法王(疲れながら、はっきり力強い口調で)こちらへ――
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若僧はぴったり寝床のそばにより、人民は一隅に出来るだけつめて座って、立って居るものはつま先だてて、壁にぴったりとすりよって居る。
小児達は母親や父親の首へしっかり抱きついて動かない様な不安な瞳を扉に向ける。
老僧を先だてて使者が入って来る。
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使者 ヘンリー四世の使者として王の御伝言を申し□[#「□」に「(一字分空白)」の注記]ます。
「わしは今度の出来事によって両親から授かったより以
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