精神転換、或は脱皮をうらやむ一郎の心理に一筋の光明を托して、一篇の終りとしているのである。
 漱石の女性観は、いわば「吾輩は猫である」の中にはっきり方向を示していると思う。オタンチン・パレオロガスというユーモラスな表現が女の知性の暗さに与えられているばかりか、ミュッセの詩の引用にしろ、タマス・ナッシの論文朗読の場面にしろ、女は厄介なもの、度しがたきものと観る漱石の心持は、まざまざと反映している。「猫」のなかではそれでも一抹の諧謔的笑いが響いているが、「三四郎」の美禰子と三四郎との感情交錯を経て「道草」の健三とその妻との内的いきさつに進むと、漱石の態度は女は度し難いと男の知的優越に立って揶揄しているどころではなくなって来ている。「行人」の一郎が妻の心の本体をわがものとして知りたいと焦慮する苦しみは、見栄も外聞も失った恐ろしい感情の真摯さで現われていると思う。「女は腕力に訴える男より遙に残酷なものだよ」「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪《よこしま》になるのだ」という一郎の言葉に、作者は何と悲痛な実感を漲らしているだろう。
 漱石の両性相剋の悲劇の核は、一貫して女の救いが
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