たい非条理性と男にとって堪えがたい欺瞞性とにおかれている。「行人」の直は、「明暗」のお敏のように自覚して夫を欺瞞しつつ、その恥に無感覚なような性の女ではない。しかしながら、一郎にとっては二郎がその人当りのいい俗っぽさで自己の本心をつきつめようとしないのが憤ろしいと同じ程度に、直が妻として自分の本心の在りようを夫との間につきとめる必要を感じていないのが絶えざる苦しみの泉である。作者として一郎のこの不満に万腔の支持を与えている漱石は、翻って直の涙の奥底をどこまで凝っと見守ってやっているだろう。直は、家庭のこまこました場合、淋しい靨《えくぼ》をよせて私はどうでも構いませんというひとである。「妾《わたし》のような魂の抜殼はさぞ兄さんにはお気に入らないでしょう。然し私は是で満足です、是で沢山です。兄さんについて今迄何か不足を誰にも云ったことはない積りです」そういう直である。夫に対してもうすこし積極的にしたらどうですと云われて「積極的って何うするの」と訊く直は、果して何一つ燃えるものを内にもっていない女として生れて来ているのだろうか。魂の抜け殼が「大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」と云ったりするであろうか。
 和歌の浦の暴風のなかでそのような言葉を嫂からきいて、二郎は、自分がこの時始めて女というものをまだ研究していないことを知ったと感じ、彼女から翻弄されつつあるような心持がしながら、それを不愉快に感じない自分を自覚している。二郎の人間心理の洞察はここに止るのだが、作家としての漱石の追求も、直のこの女としての機微にふれた心理の抑揚に対して、そこで終っているのは、興味深くもあり遺憾でもある。
 夫《おっと》のために邪《よこしま》になり、女が欺瞞にみちたものとなると見るならば、漱石はどうして直の心理のこの明暗を追って行かなかっただろう。二郎に向ったときの直の自然な感情の流露を、「行人」の中でただ夫でない男への自覚されない自然性、夫への欺瞞の裏がえったものとして扱われているようなところが、今日から見られればやはり漱石のリアリズムの一限界であると思う。
 女を夫が邪にするのであるか、それとも、夫と妻との成り立ちとその生活に世俗のしきたりが求めている何かによって、妻が邪になり、いつしか弱者の人間的堕落の象徴として欺瞞を身につけるのであるか。日本の
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