社会の現実のなかでは、特別この点が両性相剋をもたらす因子として大きい役割を演じていることは疑えない。男女相剋の図どりも、日本ではストリンドベリーのそれとは全く異った地盤の上に発生している筈ではないのだろうか。
そこから云えば、一郎がたとえ「一撃に所知を亡う」ことに主観の上で成功したとしても、作者が彼とともに掴もうとする人間本心の課題としての相剋は、客観的には未解決のままにおかれざるを得ない。
「行人」の中で一郎が道徳に加担するものは一時の勝利者であり、自然に立つものは永遠の優者であるということを男女のいきさつについて云っている。漱石の作品のなかでは、偽りを未だ知らない若い女の可憐さが才走った女たちと対比的に描かれているが、人妻となっている女が、周囲と自分の偽りを捨てて本心に生きたときは「それから」の代助に対する三千代の切迫した姿となり、「門」の宗助により添う、お米の生活となって現われているところも、何かを私たちに考えさせる。しかも漱石は、そのようにして自然に立った一対の男女に対していつも何かの形で加えられる烈しい復讐を見ている。男女のいきさつでは自然に立ったつもりでも遂に我が心に対して永遠の勝利者としては生きかねた一個の人間の運命が「こゝろ」の「先生」に描き出された。「行人」から引つづいて「こゝろ」が書かれたことには、見落せない漱石のきびしさがある。一郎が「こゝろ」の主人公のようなめぐり合わせに立ったとして、生きとおせるものかどうか、そのことが追究されている。「行人」で二郎がもっと激しい人間であったらば、と様々の局面を想った作者の心持がKという人物をとらえたとも思えるのである。[#地付き]〔一九四〇年六月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「新潮」
1940(昭和15)年6月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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