るHさんは、猫に先生である自分を観察させた作家漱石の自己への客観的態度の又の表現であろう。これだけ手のこんだ構成のなかで、漱石は偽りでかためられている家庭として自分の家庭を感じ、妻直の掴み得ないスピリットを掴もうとして憔悴する一郎の悲劇を追究しているのである。
兄の妻とならなかった頃からの直を二郎が知っているという偶然が、一郎の苦悶を一層色どって、「二郎、何故肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」とも口走らせる。
二郎がその問いを不快に感じる心、あなたが善良な夫になれば、嫂さんだって善良な妻ですよ、という態度にも一郎は弟のその常識性の故に激しく反撥する。直という女は、何処からどう押しても押しようのない女、丸で暖簾《のれん》のように抵抗《たわい》ないかと思うと、突然変なところへ強い力を見せる性格として描かれている。おとなしいともうけとれるし、冷淡ともうけとれる。そういう日常の姿態の女として描かれている。妻とのせっぱつまった苦しい感情、父、弟からの人間として遠い感情、この一郎の暗澹とした前途をHさんは「一撃に所知を亡《うしな》う」香厳の精神転換、或は脱皮をうらやむ一郎の心理に一筋の光明を托して、一篇の終りとしているのである。
漱石の女性観は、いわば「吾輩は猫である」の中にはっきり方向を示していると思う。オタンチン・パレオロガスというユーモラスな表現が女の知性の暗さに与えられているばかりか、ミュッセの詩の引用にしろ、タマス・ナッシの論文朗読の場面にしろ、女は厄介なもの、度しがたきものと観る漱石の心持は、まざまざと反映している。「猫」のなかではそれでも一抹の諧謔的笑いが響いているが、「三四郎」の美禰子と三四郎との感情交錯を経て「道草」の健三とその妻との内的いきさつに進むと、漱石の態度は女は度し難いと男の知的優越に立って揶揄しているどころではなくなって来ている。「行人」の一郎が妻の心の本体をわがものとして知りたいと焦慮する苦しみは、見栄も外聞も失った恐ろしい感情の真摯さで現われていると思う。「女は腕力に訴える男より遙に残酷なものだよ」「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪《よこしま》になるのだ」という一郎の言葉に、作者は何と悲痛な実感を漲らしているだろう。
漱石の両性相剋の悲劇の核は、一貫して女の救いが
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