治的総罷業は全勤労者に波及した。分散的ではあったが、バリケードが築かれ、武装叛乱が開始された。勤労大衆は軍隊を味方につけるために力を尽した。レーニンは「モスコー暴動の教訓」の中で、次のように書いている。
「モスコー暴動は恰も軍隊の獲得のための、反動と革命との間の死者狂いの最も狂暴な闘争を吾々に示したものである。」
「モスコーのプロレタリアートは十二月事件において軍隊への『働きかけ』のすばらしい教訓を吾々に与えた。例えば、十二月二十一日(八日)ストラストナ広場において、群集がコサック兵を包囲し、彼等と一緒になり、彼等と親睦をはかり、彼等を後退せしめた如き、或は二十三日(十日)プレスナにおいて、一万人の群集のうちで、赤旗をおし立てたうら若い労働婦人が『われわれを殺せ! 生きている限りわれらは旗を渡さないぞ』と叫びながら、コサック兵を目がけて突進したが如き、又コサック兵が群集の『コサック兵万歳』という叫びに面喰って、駆け去ったが如きは、永久にプロレタリアートの意識のうちに刻印されたに違いない。」
が、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の反動勢力は、集会の解散、指導者の逮捕、コサックの襲撃等で、政治的テロルを広汎に陰惨に組織した。武装暴動が各地にひろがったにも拘らず、遂に革命は鎮圧され、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の勝利に帰した。
「十二月叛乱は革命的緊張の最高点を意味し、その敗北はプロレタリアートの退却の始まりとなった」しかし闘争は被圧迫大衆に対して巨大な意義を与えた。多くの大衆は、ツァー[#「ツァー」に×傍点]とブルジョアジーに何事も期待出来ないことを深く知り、又、ツァー[#「ツァー」に×傍点]に対する決定的闘争手段として武装暴動の必要を深く知った。
「武装をとるべきではなかった」というプレハノフの有名な日和見主義的言辞に決定的に反対してレーニンは、この闘争から多くの積極的教訓を汲み出してきた。即ちレーニンは「諸組織が運動の発展と飛躍に対して立ち遅れたのだ」「暴動の時期において、吾々は動揺しつつある軍隊[#「軍隊」に×傍点]の獲得のための闘争の任務の重要性を理解しなかったのだ」(モスコー暴動の教訓)と言って、暴動における断乎たる攻撃的指導、軍事的戦術の確立を強調している。そしてプレハノフの泣言を蹴って、「一九〇五年の『一般的演習』がなかったとしたならば、一九一七年十月革命の勝利は不可能であったろう」(レーニン・共産主義における「左翼小児病」)と一九〇五年の暴動を評価している。我々日本のプロレタリアート・農民も来るべき人民革命[#「革命」に×傍点]の勝利のために、一九〇五年の教える教訓、特に前衛党の立ち遅れの克服を今日のものとしなければならない。
一九〇五―七年に至る第一次ロシア革命の後、一九〇七―一〇年に及ぶ、酷烈な反動の時代が来た。レーニンは、この反動の時代の特徴を次の如くとらえている。
「ツァーリズムは勝利した。すべての革命的党や反政府党は打ち敗られた。無気力、頽廃、分裂、離散、裏切り、淫猥文学とが、政治に代って横行した。哲学的理想主義の熱望が起り、反革命的思想傾向としての神秘主義が流行した。けれどもこの大敗北は同時に革命的諸党と革命的階級にとって極めて有益なる教訓であったし、歴史的弁証法の教訓、全ての政治的闘争を如何にして遂行すべきであるかという事についての理解と技術との教訓であった。真実の友は不幸の中にこそ見出されるものだ。(この真理を)敗北した軍隊はよく学ぶ」(レーニン、同書)
この時期はいかによく隊伍をととのえて、来るべき闘争に備えるために退却すべきかを、革命的プロレタリアートが学んだ時期であった。ツァー[#「ツァー」に×傍点]の野蛮な弾圧は、謂《いわ》ゆる「黒百人組」等によって、革命的分子を追及した。
次の死刑判決の数は、この時期の反動がいかに凄惨を極めていたかを如実に物語るものだ。
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年度 ――宣告数
一九〇七年 一、六九二
一九〇八年 一、九五九
一九〇九年 一、四三五
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この反動の時期に、幾多の小ブルジョア分子は、困難多い地味な闘争に堪え得ないで、非合法活動の放棄、清算主義と「合法的舞台の全部的放棄」の「左翼」清算主義に走った。我々は我国の三・一五、四・一六の後に起った、解党派、新労農党結成、或は一揆主義的極左主義的偏向を想起することが出来る。レーニンは、かくの如き日和見主義的動揺に対して真に断乎として、党の革命的目標を動揺さす分子と闘い、非合法党による合法と非合法の弁証的結合を正しく指示した。
一九一〇年以来、新しい革命的昂揚の波がたかまってきた。ストリピンの農業改革、重工業の発達、ストライキの激増がみられた。それは一九一二年四月のレナの流血の大衆的大罷業以来、特に顕著になり、一九一四年の前半期には約二百万人(一九一〇年の二十倍)が罷業した。
メンシェビキが、闘争綱領を「団結の自由」にまで引き下げているとき、ボルシェビキは、三つの基本的スローガンを正しく守り、益々労働者階級に対する革命的指導を広く強化した。闘争の困難の時期に、状勢にかこつけて、綱領の引き下げを行うことは各国の日和見主義者の特徴である。一九一二年、プラーグでボルシェビキの特別の党指導部が成立して以来、特に議会フラクションの指導に忽ち現われた如く、党の独自的指導は強まった。
一九一四年に第一次世界大戦がおこり、ツァーのロシアも、勤労大衆の若い働き手を引ずり出して、この帝国主義戦争に参加した。今日、日本のブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が、帝国主義戦争によって「血路」を求めようとしているように、当時のロシア帝政も戦争を望んでいた。日本帝国主義が、今日東洋における最も野蛮な番犬であったと同様に、ツァーリズムは東欧のそれであった。この番犬は、国内の野蛮な封建的抑圧、収奪を、対外的には略奪戦争へ向けた。又戦争参加は、ロシア資本主義を支配していた、フランス、英国の金融資本の意志であり、ツァー[#「ツァー」に×傍点]は金融資本と地主の代表者として「市場」バルカンの収奪を熱望していたのだ。
帝国主義戦争開始以来、ボルシェビキ中央委員会は、「自国帝国主義政府の敗北」「戦争を内乱[#「内乱」に×傍点]へ」のスローガンを掲げて、社会排外主義者、祖国擁護論者プレハノフ一派の裏切りと徹底的に闘争した。
世界戦争中に、二百五十万のロシアの兵士が戦死し、約五百万人が負傷した。戦争の進行とともに、農村の働き手が大部分奪われ、家畜は勝手に徴発され、生産は低下し、生活は破滅的に窮乏した。物価は暴騰して、勤労大衆の生活を苦しめた。戦争は資本家に戦時利得を与えるだけの「好況[#「好況」に傍点]」をもたらしたにすぎなかった。支配階級自体の中に多くの混乱が生じた。
かくて、階級闘争は必然に尖鋭化した。闘争の尖頭には、革命的プロレタリアート、ボルシェビキが立っていた。ボルシェビキの反戦闘争は、大経営の中に確個とした根を下して進んだ。そして革命的情勢が急迫をつげてきたのである。
一九〇五年の新しい発展として、一九一七年三月の革命がプロレタリアートの指導の下に開始された。戦争中も熄《や》まなかったストライキの波は、暴動的大衆行動にまでたかまってきた。「専制主義を倒せ」「戦争をやめろ」というスローガンの下に示威運動が続けられた。
三月三日、すべての職場の集会が持たれ、政治的要求と経済的要求が、結合された。三月八日、婦人デーにはもはや革命が開始された。十日、ボルシェビキは「凡ての者は起て」と飛檄した。十一日、諸工場、諸経営は閉鎖された。三月十二日、クロンスタットの大衆が革命の側に立った。曾て、一九〇五年、モスクワに送られ労働者鎮圧を遂行したプレオブラジェンスキー連隊の兵士が叛乱[#「叛乱」に×傍点]を最初に起した。我々は、ここにもボルシェビキが、一九〇五年の教訓を正しく遂行したことをみるではないか。
同じ日、「国会」は混乱のうちに臨時委員会を選出し、ブルジョア的政府の組織を急いだ。叛乱した兵士と労働者は、労働者・兵士代表ソヴェトを構成した。十三日、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の最後のもがきを撃破しつつ、ツァーの高官達が続々逮捕され、或は銃殺された。(日本[#「日本」に×傍点]においても、労農大衆の投獄、拷問、虐殺を行いつつある天皇[#「天皇」に×傍点]と、その憎むべき反動的手先に、革命の制裁を与えねばならぬ)三月十六日、革命の進展におされて、ニコライは遂に退位した。
ツァー[#「ツァー」に×傍点]の支配は三月革命で倒された。が、政権は革命的プロレタリアートの手に握られないで、国会を基礎として、立憲民主党、十月党、メンシェビキ――ブルジョアジーの代表者「臨時政府」がつくられ、それが支配した。臨時政府より遙かに大衆の間に権威を持っていたソヴェトの指導者は、政権をソヴェトに獲得しようとしないで、ブルジョア的政治家が政権へ到達するに委せたのである。ボルシェビキの組織が、戦時、多くの被害を蒙っていたため、ソヴェトの指導部にいたのはメンシェビキであった。
かくて、労働者階級の階級意識と組織が十分成熟していず、妥協主義者によるソヴェトの統制等という事情から、所謂、「二重権力」の時代が始まったのである。レーニンは、「国家と革命」において、「ソヴェトはブルジョア民主主義者の指導のおかげで既に骨抜きになっていたし、また、ブルジョアジーはソヴェトを解散させるには力が不十分であった」と書いている。
新政府は、その本質において、地主と同盟したブルジョア政府だった。三月以来の「共和主義」政府は、王朝復興の意図すら持っていた。
臨時政府は、戦争を中止しなかった。「最後の勝利まで」彼等のスローガンはこうだった。全ロシアの企業の資本は、依然として資本家の資本である。社会革命党とメンシェビキは地主の財産没収を放棄した。
殊に農民を苦しめたのは帝国主義戦争であった。「戦争から脱せよ」これが、窮乏のどん底から農民があげた心からの叫びであった。そして、それは臨時政府のブルジョア支配――社会革命党とメンシェビキの権力を倒すことを必要とした。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの決定的闘争の舞台に登場して来た。ツァー[#「ツァー」に×傍点]を倒した三月革命は、この舞台をいわば掃ききよめたのだ。
レーニンの率いるボルシェビキは、臨時政府の戦争継続に反対して労農大衆を次第に強く広く結集して闘った。ボルシェビキ党は工場委員会、ソヴェト、その他の団体のうちへ、「すべての権力をソヴェトへ」のスローガンを掲げて起《た》った。ソヴェトこそ、プロレタリアート・農民の革命的民主的独裁の形態だった。
ロシアの労農大衆は一九一七年三月から十月に至るまで、深刻に政治的経験をつんだ。この時期は僅か八ヵ月だったが、大衆は大きな政治的教育を革命の息吹きの中で与えられた。この時期に労働者、農民は一層革命化して特に農民は社会革命党から離れて、土地と自由の真の味方、ボルシェビキの側に結合して来た。
この期間は二つの党派が、労働者・農民の多数を自分の側に得るために闘ったのだ。即ち小ブルジョア民主主義と、ボルシェビキ的なプロレタリア民主主義の決戦の時期であった。そしてロシアの労働者・農民は、ボルシェビキこそ、勤労大衆の民主主義の前衛であることを知った。
三月革命から、十一月革命を過ぎて一九一八年三月頃までの全露ソヴェト大会の代議員数に現われた次のような二つの勢力の消長は、ボルシェビキの勝利の方向を示している。
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第一回 一九一七年六月
ボルシェビキ側 反ボルシェビキ
一〇〇名 六八一名
第二回 一九一七年十一月
三九〇名 二五九名
第三回 一九一八年一月
四三四名 二六七名
第四回 一九一八年三月
七三二名
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