若い働き手を戦場に奪って行きつつある。が皮肉にも凶作地の農村からの召集兵は、ろくに食っていないので、勤務演習に堪えないで、帰郷を命ぜられたとブル新聞は報道している位農村の窮乏は深い。

 同じ地球の上の国でありながら、しかも同じ労働者・農民でありながら、何という相違だ。これは全く人間と非人間の相違だ。
 何故ソヴェト同盟にばかりは、そのような社会が存在するのか? 地球六分の一を占めるソヴェト同盟ばかりは、何故そのように一つの断乎として他のブルジョア国と違う世界が建設せられているのであろうか。それはソヴェト同盟こそ、真に労働者・農民が権力を握って支配階級となっている、プロレタリア独裁[#「独裁」に×傍点]の国家だからである。
 天皇[#「天皇」に×傍点]や地主・資本家等の、労働者・農民、勤労大衆の搾取と抑圧の上に安住している者共が支配していないで、働く者が政治権力を持ち、経済、文化のすべてに汎《わた》って支配しているからだ。生産を社会化し、遂には階級というものをなくして行く目標に進んでいる労働者・農民の国だからだ。ここでは働く者が最大の権利と幸福を与えられている。
 日本では、その正反対だから、労働者・農民は、牛馬のような奴隷的生活を送らされているのだ。すべての資本主義社会のように、ここでは、働くものが一切の権利と幸福を奪われている。
 資本主義国の中でも、日本帝国主義は特に野蛮な国であることを諸君は知らねばならぬ。
 日本では、封建社会から資本主義へ移る際に天皇制[#「天皇制」に×傍点]――半封建的な官僚と大土地所有者――が勝利を占めたため、おくれた日本資本主義を列国帝国主義と対等の位置におくため、弱い隣接民族の略奪を開始した。市場と原料の略奪、奴隷的労働力搾取のための殖民地強奪が、日本の資本主義発展の第一日から必要であったのだ。殖民地奪取のための戦争が必要なのであった。ブルジョア・地主の利益のために、大衆を戦争に駆り立てる軍事的・警察的・絶対主義的体制が強められたことは、明らかである。日本帝国主義は、日清戦争によって台湾を奪い、日露戦争によって樺太を奪略し、ヨーロッパ戦争によって南洋島その他を新たな搾取の材料として来た。そして国内では殖民地の労働者よりもひどい搾取を無制限の権力によって、勤労大衆の上につづけて来たのだ。
 農村では、全農家の七割が貧農経営であって、地主による半農奴的な搾取がつづけられている。労働者は、ヨーロッパの労働者と同様の生産性をもっていながら、殖民地の労働者と同じ状態におかれている。「飢餓的労働賃銀、長い労働時間、兵士のような束縛、年期契約労働、社会立法の欠如と完全な政治的無権利――これこそ、日本労働者階級の状態を特徴づけるものだ。」(日本の状勢、日本共産党[#「日本共産党」に×傍点]の任務)(独文「コンミュニスト・インテルナチョナーレ」)
 そして、労働者・農民に対するブルジョア・地主の搾取の基礎の上に、野蛮な天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が根を下しているのだ。日本帝国主義は、国内においては、農村の半封建的搾取、労働者の殖民地的搾取、国外においては、暴力的・軍事的に隣接民族を併呑《へいどん》、侵略、殖民地化して、成長してきたのである。そして、有名な「田中覚え書」が示すように侵略政策こそ、二つの搾取階級の野蛮な代表者、天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配の政策であったのだ。
 それだから、日本労働者・農民の前衛は、ブルジョア民主主義革命[#「革命」に×傍点]を通じて強行的にプロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]に到達するべく闘っている。そして、現在、ブルジョア民主主義革命[#「革命」に×傍点]の段階では次のような任務を掲げて広汎な大衆闘争をまき起している。
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一、天皇制の廃止[#「天皇制の廃止」に×傍点]
二、寄生的土地所有の廃止
三、七時間労働制の実現
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 そして、革命的プロレタリアートは、行動スローガンとしては次のものを掲げている。
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一、帝国主義戦争反対、帝国主義戦争の内乱[#「内乱」に×傍点]への転化。
二、ブルジョア=地主的天皇制の廃止[#「天皇制の廃止」に×傍点]、労働者・農民ソヴェト政府の樹立。
三、一切の地主、皇室[#「皇室」に×傍点]及び社寺の所有土地の無償没収[#「無償没収」に×傍点]、農民への交付。地主、高利貸及び銀行に対する農民の一切の負債の完全な棒引。
四、七時間労働制及び労働者の状態の根本的改善。階級的労働組合の組織化と活動の自由。
五、日本帝国主義の軛《くびき》からの殖民地(朝鮮、満州、台湾、その他)の解放。
六、ソヴェト同盟及び中国革命の擁護。
[#ここで字下げ終わり]
 諸君は、これらの任務を達成することは、決して遠い将来のことと思ってはいけない。ソヴェト同盟の兄弟は、実に、闘争によって、我々が今掲げているスローガンに相当する目的を美事に闘いとり、遂にプロレタリア革命[#「革命」に×傍点]を通じて支配者となったのだ。彼等は、野蛮なツァー[#「ツァー」に×傍点]を倒し、ブルジョア・地主の政府を倒し、遂に今日の幸福な生活を戦いとったのである。彼らは、我々が今掲げているスローガン「帝国主義戦争を内乱[#「内乱」に×傍点]へ転化し」武器を支配階級に向け、今日の赤軍をつくった。
 我々も、ソヴェト同盟の兄弟たちの英雄的闘争に学ぼうではないか。既に、我々のところにも、労働者・農民の大衆的闘争は、革命的プロレタリアートの指導の下にまき起っている。我々は、我々の闘争を更に勝利の確信をもって、戦うため、そして多くの教訓を得るために、いかなる闘争を通じてソヴェト同盟の兄弟たちは、勝利をかち得たかを次にみよう。

        二、ソヴェト同盟の兄弟たちは、どんな闘争を通じて勝利を得たのか

 今から十五年前まで、ロシア勤労大衆の生活というものは、ヨーロッパ資本主義国の中でも、最悪のものであった。皇帝《ツァー》は絶対専制主義で、大地主であり同時に大資本家であった。土地は大地主に独占され、僅か「七百人の地主が平均して各々三万デシャチンの田地を処理し、この七百人が、六十万の小所有者の三倍の田地を所有している」(レーニン)ほどであった。当時のロシア農民は高率な小作料をいたぶられ、しかも丁度日本における地主が小作料の封建的搾取のみを行って、近代企業として農業の機械化などを考慮しなかったと同じく、原始的な耕作法に放置せられておった。大地主は、農地全面積の四分の三を占めていたが、その五分の一しか耕作されていなかった。
 工場の労働者の生活がどんな非人間的条件であったか、「搾るための物を言う家畜」として扱われていたかは、ロシア全土の文盲率が世界資本主義国第一位を占めていたのでも明らかである。ロシアの労働者の労働賃銀は、西欧のそれより幾倍も安かった。外国資本が国の工業に喰い入っていた。労働時間は十時間から十三時間で、繊維労働者は一ヵ月十五(円)の賃銀さえやっととった。〔三字伏字〕の搾取、抑圧のための政府は、全力をつくしてこのような劣悪な生活条件を蹴散らして、奮起しようとする勤労大衆の反抗を暴圧した。ツァーのロシアの軍隊、憲兵は、血につながる勤労大衆を、ストライキしたからと云い、反抗を計画したからと云って虐殺[#「虐殺」に×傍点]した。大学は労働者の息子を入学させなかった。大衆を暗い陰気な讚美歌で眠り込ませる教会と、酒でもりつぶして階級的不満を忘れさせ、勤労大衆を肉体的にも精神的にも腐らすための、そして政府はそれからウンと税を儲けることの出来る酒場だけが、街のいたるところの角にあった。労働者の長い列と、罵り、わめき、パンを買うだけの金をよこせと叫ぶ女房連の列とが、給料日にはきまって酒場の前に見られたという有様であった。
 一九〇五年の始めごろ、ただならぬ空気が漂っていた。日露戦争の敗北は、新たな革命運動の波、社会民主党(ロシア共産党――ボルシェビキ――の前身)の勢力の拡大と結びついて、大衆の経済的・政治的不満を深めた。
 やがてロシア革命史上の画期的な歴史日が来た。
 一九〇五年一月は、帝政ロシアの革命的大衆の歴史にとって、忘れることの出来ぬ記念の月となった。ペテルスブルグの秘密警察の代理者ガポン僧正は、プチロフ工場の四人の労働者の解雇を契機として起ったストライキ、拡大して行く労働者運動の波を、自己の指導下におこうとして、歴史的大芝居を打とうとした。大衆の政治的不満を皇帝への請願運動に解消させようとして「十字架行列」を組織した。
 一月九日、ガポンに率いられた数万の労働者は教会旗や、聖像や、ツァーの肖像を建て、ツァーの讚歌を歌い、女子供までその後について冬宮の広場へ懇願に進んだ。ところが、この赤旗も革命歌もない行列に向って、ツァー[#「ツァー」に×傍点]が与えたものは何であったか。ネルリ門の附近で、突如、騎兵の襲撃と一斉射撃が起った。ガポンは逃げた。婦人、子供、老人にまで射撃[#「射撃」に×傍点]が続けられた。あきらかに仕組まれた芝居の指揮者、ツァー[#「ツァー」に×傍点]は、勤労大衆の請願に銃撃[#「銃撃」に×傍点]の挨拶をもって威嚇し抑圧したのである。だが、労働者のすべてが逃げまどうたのではなかった。
「労働者たちは胸間のシャツを引き裂いて、同志よ、俺達は死のう、だが一歩も退くな、と叫んだ。」武装せぬ行列は、社会民主主義者の指導の下に、バリケードを急造し、木石や間に合せの武器で抵抗した。千人余の負傷者、二百人の死者の犠牲者が数えられたが、ツァーの軍隊のために労働者は蹴散らされた。
 この日「血の金曜日」より以来、勤労大衆の胸には、今まで「地上における神の名代」としてうつっていたツァー[#「ツァー」に×傍点]に対する容赦ない憎悪が刻印された。ロシアの勤労大衆は、ツァー[#「ツァー」に×傍点]が専制政治の先頭に立っているものであることを、大きな犠牲によって知ったのである。この日から都市において、抗議ストライキの波、農村においてストライキと地主農園の破壊が起った。労働者は八時間労働制と、専制政治に対する闘争をスローガンとした。
 闘争は軍隊にも起った。一九〇五年六月、黒海艦隊に叛乱が起った。「ポチョムキン」号の水兵は、政治的要求を掲げて立ち上った。彼等は士官を捕縛し、僚艦を味方として叛乱を続けたが遂に敗北した。が、この敗北にも拘らず、それはツァー[#「ツァー」に×傍点]の支配を動揺させ、ロシア革命の武装蜂起の価値ある下地となることが出来たのである。
 一九〇五年九月以後、プロレタリアートを先頭とする政治運動の波はたかまった。十月ペトログラード(今のレーニングラード)にストライキ、武装蜂起が起った。八時間労働、市民の自由、憲法議会の召集が主要要求であった。
 十月十三日には、ペテルスブルグで最初の労働者の「ソヴェト」が待たれた。(ソヴェトとは、代表者会議という意味である。勤労大衆の意見、利益を代表して主張し、その貫徹のために闘う代表者を大衆選挙によって決定する仕組である。)
 このソヴェトは、ペテルスブルグのみでなく、全ロシアの闘争――武装蜂起、革命の指導部となった。そして、これらの革命的昂揚におされて、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の政府は十月十七日、「政治的自由」と「帝国議会の召集」を約束して、一応の譲歩を示した。だが、その約束が口約束だけだと言うことをプロレタリアートが指摘し、更に闘争をつづけた。農民運動はコーカサス、中央ロシア、ポーランド等に春の三倍もの地域において拡大した。十一月中旬、黒海艦隊の「オチャコフ」号は、新たに叛乱を起した。
 十一月には、労働者ソヴェトの数がふえた。
 十一月一日から七日まで、第二のゼネラル・ストライキが開始された。鉄道、印刷の労働者等は、労働者ソヴェトの同意の下にのみ動いた。軍隊はソヴェトに同情を寄せた。
 十二月八日から九日にかけて、ソヴェトの決議に基き、政
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