政治的テロルを広汎に陰惨に組織した。武装暴動が各地にひろがったにも拘らず、遂に革命は鎮圧され、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の勝利に帰した。
「十二月叛乱は革命的緊張の最高点を意味し、その敗北はプロレタリアートの退却の始まりとなった」しかし闘争は被圧迫大衆に対して巨大な意義を与えた。多くの大衆は、ツァー[#「ツァー」に×傍点]とブルジョアジーに何事も期待出来ないことを深く知り、又、ツァー[#「ツァー」に×傍点]に対する決定的闘争手段として武装暴動の必要を深く知った。
「武装をとるべきではなかった」というプレハノフの有名な日和見主義的言辞に決定的に反対してレーニンは、この闘争から多くの積極的教訓を汲み出してきた。即ちレーニンは「諸組織が運動の発展と飛躍に対して立ち遅れたのだ」「暴動の時期において、吾々は動揺しつつある軍隊[#「軍隊」に×傍点]の獲得のための闘争の任務の重要性を理解しなかったのだ」(モスコー暴動の教訓)と言って、暴動における断乎たる攻撃的指導、軍事的戦術の確立を強調している。そしてプレハノフの泣言を蹴って、「一九〇五年の『一般的演習』がなかったとしたならば、一九一七年十月革
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