|己巳《つちのとみ》四月四日。

     道長の出世の原因

 藤原為業は明晰な、而して皮肉な頭の男であったらしい。望月の欠くるところなきを我世と観じた道長の栄華のそもそもの原因を斯う云って居る。
 二十三で権中納言、二十七で従二位中宮太夫となった道長は、三十歳の長徳元年、左近衛の大将を兼ねるようになったが、その前後に、大臣公卿が夥しく没した。その年のうちにも三月二十八日に閑院大納言、四月十日には中《なかの》関白。小一條左大将済時卿は四月二十三日、六條左大臣、粟田右大臣、桃園中納言保光卿は、三人とも五月八日一度に死んだ。山井大納言は六月十一日に亡き人となった。斯那ことは又となかろう。大臣公卿が七八人、二三月のうちにかき払われて仕舞うことは稀有な出来事と謂うべきである。
 これが道長の運命に大きな変化を与えた。
 前述の先輩達が順当に長寿したら、道長とてもあの目覚しい栄達は出来なかったであろう。それを、嗣ぐべき人が相ついで世を去った為道長は、あさましく夢なのどのようにとりあえず、なったのだ。と。


 短い小説を書こうとして居るのに、どうしても趣向がぴったり心に映らず、従ってちっとも信
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