念が湧かないので、一字も筆を卸せない。殆どその事ばかりを思いつめ、今日は心が苦しい程になった。
夏目漱石の「門」をとびとびに読み、終りに近く、宗助が鎌倉の寺に参禅したところで、ひどく感動する文句に遭った。彼の作より寧ろ引用してある禅僧の話が心を打ったのだ。
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「悟りの遅速は全く人の性質で、それ丈では優劣にはなりません。入り易くても後で塞えて動かない人もありますし、又初め長く掛っても、愈と云う場合に非常に痛快に出来るのもあります。決して失望なさる事は御座いません。ただ熱心が大切です。亡くなられた洪川和尚などは、もと儒教をやられて、中年からの修業で御座いましたが、僧になってから三年の間と云うもの丸で一則も通らなかったです。夫で私《わし》は業が深くて悟れないのだと云って、毎朝厠に向って礼拝された位でありましたが、後にはあのような知識になられました。云々。」
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と云うのだ。
自分が苦しい最中なので、業が深くて云々と云う処を読んだら涙で眼がかすんだ。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版
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