い経済政策の蔭の一部をなしている。二十年前、三十年前に、富裕な女たちばかり家庭医というものの処置を利用して、彼女たちより何倍か母として負担の多い勤労多数者の妻にその必要な知識と手段とを許さなかった時代に要求されていた声の本質と、今日それを一般に承認している声の本質とは、同一の産児制限をめぐって、一つの声は人間的欲求であったし、一つの声は非人間的な或る意味での剥脱の声なのである。こういう現実に即してみたとき、もし産制の運動者が今日のアメリカにおける変化をただ自分たちに自覚されている善意と努力の側からだけで評価して雀躍するなら、計らずも彼らのよろこびの声は本質的にまことに非人間的な声への合唱となるのである。私たちに生む自由を与えよ。こういう希願は、一見きょうの多数の女又親たちの置かれている悪事情に反するようであるのに、つきつめて見れば、この声がまともに応えられる時にこそ、人間らしい自主的な意図での制限も可能であることになる。女として見れば、きょうの世の中には生ませられる母と生ませられない母胎というものが余りありすぎる。文筆の上では、私という一人の女が、さながら子供なんぞ可愛いと思ってはいけ
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング