るが、実際には帝国芸術院が出来ると一緒に忽ち養老院、廃兵院という下馬評が常識のために根をすえてしまった。「新日本文化の会」が出来た。「中央文化連盟」が出来た。そういう記事報道を読む一般人の表情には、無関心か軽蔑か憎悪かが、一種の苦笑と共に浮んでいるのは何故なのであろうか。
今日の文明国同士のつき合いでその国の文化水準や芸術の成果はそれぞれ意味ふかい影響を与えあっている。日本も、軍事的行動に於て所謂《いわゆる》怒髪天を衝く態に猛勇なばかりでなく、文華の面でこのように独自であり、政府もその評価に吝《やぶさか》でないという一つのジェスチュアとして、アカデミーもつくられる一つの時代的必然があるのである。しかも、その一部の必要、必然と今日の一般社会人の生活感情の間に湛えられて満々と漲っている文化的要求、文化的発言に対する自由の要求との間に、覆うことの出来ない開きがある。本質上の矛盾がある。アカデミーによって日本最高の芸術と云われる竹内栖鳳の五匹の蛙が五千円というような絵や「新日本文化の会」で中河与一氏、保田与重郎氏などによってロマンティック狂信的に讚えられる万葉精神と、私たち一般人の日々の経済
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング