内務大臣によって発禁されたこともあった」
当時「文芸委員会」の委員であった諸氏の内には、もとより混り気のない心持で、日本の美風良俗[#「美風良俗」に傍点]をいかがわしい[#「いかがわしい」に傍点]自然主義の傾向から守ろうと思って参加していた人達もあったであろう。しかし今日歴史の大局から当時を顧みれば「文芸委員会」の客観的本質は、偽善なく現実社会の曝露を敢てしようとする十九世紀の思想に抗して、日本的な旧套を墨守しようとした政府の反動政策であったことは瞭然としている。ただ、その頃の文芸委員たちは、自身の社会意識の裡に政治性が幼稚であったために、政府の方針を主として道徳的な面の問題としてめいめいの感情へうけとっていたのであった。
後藤末雄氏が『日本評論』に書いていられる論文「帝国芸術院を審議す」の文章をかりて云えば「爾来、星霜二十余年」今度社会正義に基く[#「社会正義に基く」に傍点]ことをモットーとする近衛内閣によって、従来の「蚊文士」が「殿上人」となることとなった。「かかる官府の豹変は平安盛時への復帰とも解釈されるし、また政府の思想的一角が今日、俄かに欧化した」とも云い得るかのようであ
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