であった、彼の誰だか分らない「私」の胸を満たしたと同じに、今、芥川氏の心を揺り、私の魂にまで、そのじわじわと無限に打ち寄せる波動を及ぼしたのである。そして、今、図書館の大きな机の上で我を忘れようとして居る私は、その気分の薫り高さに息もつきかねる心持で居る。
その薫り、その故国の気分――。海を遙かに隔てて、他国の土の上に居る私は、遠く何時かの前に別れを告げた筈の故国に、今図らずもめぐり会った。今、私は故国の上に棲んで居るのではない。故国が、いとしい「我が土が」、私の此の、心の中に此の魂の中に生きて居るのを見出したのである。
私はどんなに深くいとしく、故国を思い遣る事だろう、どんなに懐かしく「私達の言葉」に聴き惚れる事だろう。
我土よ! 我が声よ!
私の家と云うのでもない。私の知人と云うのでもない。私の生れた土の持つ限りない「気分」が、我が故国よ! と云う一つの憧れになるのである。
生れて口が利けるように成って此方、私は随分沢山種々な事を喋った。善い事も、悪い事も――。けれども、嘗て今日程、自分が絶えず喋って居る「自分達の言葉」に感動したことがあるだろうか、此程、国語と云うものが
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