何とも云えない美くしい神々しい色になって遠くに見えたし、もの置いた様な羊ももういつのまにか影をかくしてしまいました。細くしなやかな銀笛は赤い詩人の唇によせられました、白いペンをもつよりほかにしらないきゃしゃな十の指はその夕やみの中に動いて小さい金具の歌々からはゆるいなつかしい夕暮の空にふさわしい音がふるえながらわき出しました。吹き出した夕暮の風はローズの金黄色の毛と笛を吹きすます詩人の髪とを美くしくもつらして居ます。笛の音は遠く遠く、羊を追う牧童の胸をまでそそるようにどっしりとして夕暮の闇をはいて居る木の間をくぐって遠く遠く、そのすぐわきに足をのばして白い靴のさきを見つめながら笛に気をとられて居たローズの目は段々に上を見つめて又その目は下に落ちて段々色々な色に変って行く湖の上に目を落しました。詩人は目をねむって短くてそしてほそい銀の笛にたましいをとられたようになって吹いて居ます。折まわした曲の末は遠く向うの山のかげに吸い込まれて笛の音は休みました。
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ロ「ありがとう」
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 夢からさめた人のようにほほ笑みをうかべながら云いました。白い紙はひるがえされて白い歯の間からは美くしいそして娘らしい声がころび出ました。その文句はみな年若な人の鵝ペンのさきになったもんでした。始めの声はゆるやかにそしてひくく、次第に月の光の銀色になるにつれて歌声もだんだんたかくそうしてすんで行きます。詩人はその形のいい頭を女の白いやわらかい胸によせて目をねむってその歌をききとれました、ほんとうに美くしい声です。胸のかるい鼓動の音は詩人の心の底までひびいて行く様にうっています。女の手は白い紙からはなれてその若い人の美くしい頸を巻きました。やがてうたの調子はかわって夢をさそう様な美くしいやさしい子守うたになりました。詩人は目をねむったまま深い夢に誘われてしまいました。月は高くのぼりました。女の顔と三つ下の人のかおとを美くしく気高くてらして絵にもかかれない様な美くしさ、女の歌はやんで手は前よりも一層強くくびを巻きました。女の瞳はおののいた様にそしていい勢にかがやいてこの美くしい人をどうかするものがあったならどうして呉れようと云う様に水の上から山の方まで見わたしました。湖の上には白金の波がくだけて美くしい音楽を奏でて居ます。夜風が身にしみてふっと詩人は目をさましました、そして物おじをした様に女の胸にすがりつきました。そしてまだすっかり夢のさめない様な目ざしで神様の様な女の顔を見上げました。自分の身のまわりに百人の武士が守って居るより心づよい気がして。
 二人はそのまんまいつまでも居たい気がしました。けれどもつめたい夜の空気は薄著な二人の体につめたくあたります。三つ上の女は自分の大切な人に風を引かせてはと思ってやさしい声で云いました。
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女「もうかえりましょう。寒くなりましたもん、家でもまってるでしょう、ネまた明日来ればいいでしょうネ、サア、もうお月さまもあんなに高くなったんですもの」
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 二人は月のさす小道を銀を引きのべた様な湖を後に家に向いました。森を出ると家々の灯はもうすっかりともされていかにも夏の夜らしい景色、二人は足をはやめてはじから三番目の灯の方に向いました。二人は戸口で、
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「さようなら、よいゆめを、又あしたネ」
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と云い合って別れました。お母さんとお祖母さんはかえりのおそいのに、少しいやな気持をしていましたけれど戸口にあらわれた快活な美くしいかおを見ては、
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「マア、おかえり、少しおそすぎましたネ。おなかがすいたでしょう、早く召上れ、お茶もあついから」とよりほか云われませんでした。
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 お飯をたべて又自分の部屋に入って鵝ペンに墨をふくませました。それから白い紙の上をペンが走ると耳のそばで彼の森の女の通りな声で文句をよみます。それを自分の頭でねって綴りました。二枚三枚は見るまで五枚六枚またたくひまに書かれてしまいました。けれ共それにあとで赤い字を一字も入れるすきはありませんでした。いつの間にか入って来た母親はその句の美くしさとその筆の動とに思をうばわれて居ました。そして思いました。
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母「ほんとうにこの子は天才の子だ。私の望んで居た通り、否キット神様ののぞんで居らっしゃった通りの子なんだろう。マア、あの筆の動く様子。マアあの文の美くしさ。だれがあれが十六の子の文と思おうか。私はもうあの子がいつまで森に居ても体にさえさわらないなら叱る事はしますまい。あんな立派なものがずんずん出来るんだもの、ほんとうに」
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 筆は益々かるく文は益々美くしく、白い手は段々早く走って少年の詩人の思は夜と一所にさえて行きます。しばらく立って見て居た母親も知らない間に来て知らない間に出て行きました。三時間立って時計が十二時をうった時又、母親はのぞきました。けれどもまだ灯の下で走るペンの音はやみませんでした。翌朝今日が向の山を出ると云う時に母親が詩人の部屋をのぞいた時は、机の上には白い紙にすきまなく文字のかかれたのが高くつんであって詩人はその間に安心したらしい顔つきでつよい朝日をよこがおにうけてかすかないびきをして居ました。母親はそうっと自分のもって居たやわらかい絹のショールをかけてつまさき立てて部屋を出ました。詩人が星の様な目を見開いた時にはもう台所から肉をむす湯気が立ちのぼって居る時でした。自分の体にかけられたショールを見それから昨夜の事から今までの事までを古い時によんで物語を人の話で思い出す時の様な気持で思い出しました。
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「私はローズと森から帰って来て、御飯をたべてここに来て、紙をのべてそれから一行書き出した時、耳のそばで森の女の通りな声で一寸つまると美くしい文句を教えてくれる、それを書きとって行くと後から人声がする。誰かと思って見るとあの時の通りのなりをした森の女が立ってジーと見て居た、だまって私のわきに来て手をとって筆をはこばす夢の様な柔い気持になってされるままになって居ると美くしい文は泉の様にとばしり出て白い紙には美くしくインクの模様が書かれる。そしてその森の女は手を置いて自分の耳のはたで、
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『私の小さい美くしい人、まだ私をお覚え。今夜っきり、おお今夜っきりもうあいますまい、けれどもいつか、キットいつか、そうださようならおたっしゃで』
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と美くしいすごみのある声で云って見えなくなってしまった、それからのことは自分の一寸も知らない、そしてそれから私は今までねつづけてしまったのだ。不思議な森の女、彼の女は森で別れる時に何と云っただろう。
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『私の小さい美くしい人、この森の中の一人ぽっちな女をいつまでも忘れないで居てちょうだい』と云ったっけ。
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 不思議だ、私は何だか気味がわるくなった。早くあっちに行って母っかさんに会ってローズにも会おう」
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 美くしい小さな詩人は冷たい風に吹かれる様な様子で部屋を出ました、そして急いでお昼をすましてすまない様な恐ろしい様な心地を抱いて又裏の花園からローズをたずねました。ローズはうしろむきに何かして居ました。けれども嬉しそうにその美くしい裾をヒラヒラさして出て抱える様にして部屋に入れました。一時間二時間若い詩人と美くしい三つ年上の女とは夢の様に淡いそして強い香を持った霧に立ち込められた様な柔いそして又つかれた気分で四時間位は夢の様にすぎてしまいました。左様ならをして家にかえったあとにローズが小さいやわらかくふるえた声で詩人の美くしい髪をなでながら、
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ロ「貴方が十五で私が十八、三つ上」
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と云ったのと深い心がありそうな目つきで見つめて居たローズの目の様子はどうしても忘られませんでした。その夜は詩人は外にも出ず書きもせず黒ずくめの着物を着た母のわきで祖母を対手にかるい調子で世間話をするのをききながら時々はりのある声で笑ったり時々母の話にあやをつけたりして床に入ってしまいました。翌朝まだ日の出ない内に詩人の部屋からは燈の光がもれてそしてペンの紙をする音が寝しずまった空気をふるわして居ました。朝母がもう起きたのと云う声をかけた時にはもう机の上には墨の模様のついた紙が沢山散って居ました。
 それから一週間ほど食事の時毎にかおを合せるきりローズにも誰にもかおを見せないで一生懸命に書いて居ました。たった七日の間でした。時間にしたって百六十八時間の間でしたけれどもローズにはどんなにつらいそして長い時だったでしょう。旅に出て居た時にはいくら思っても帰ってくるまではと思っていましたけれどとなりどうししかも声をかけたらきこえる所に居ながら一日も合わずに七日もすごす、ずいぶんつらかったんですけれども、
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ロ「私の大切な人は今大変立派な物を書いて居るのだ。あの人の名誉は私の名誉、又この土地の名誉、我まんしましょう」
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 強い勇ましい心をもって我まんしていました。八日目の夕方久振、ほんとうに久ぶりにローズの部屋に可愛い形をした詩人の姿が現れました。戸口を入るといきなり、
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詩「ローズローズ、見て下さい、とうとう出来ましたよ。私はまア、どんなにうれしいでしょう。私は貴女に見てもらってから町に行って本にする様にたのんで来ましょう。馬でネ、二人で行きましょう」
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 はずんだ声で云ってさし出した手にはあついあつい、書いたものがのって居ました。
 ローズは「もうたまらない」と云う様なそわそわしてそして又いつもより一層娘らしい形をして立ったままそれをよみました。そして紙の上を走って居る目は驚とよろこびと一所になってそれはそれは美くしい光がさして居ます。書いたものは厚い厚いものです。中々一日によみきれそうにもありませんでした。所々、紙を重ねてめくって終まで来た時、
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ロ「マア、なんと云う立派な詩でしょう、早くお出しなさい、私すぐ馬の用意をして服を着かえますよネ」
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 うれしくてたまらないと云った様な様子をしてローズの姿が戸口から消えてから十分立つとかるい色のいい形の乗馬服を着たローズの姿がまた戸口から出ました。
 五分たってから真白な馬は二匹頭をそろえてみどりの森の間をくぐって燈の光の多い町に急ぎました。三十分立った時二匹の馬は町のにぎやかな所の本屋に立って居ました。詩人は柔い雅号で出版の手つづきをすませて又二匹の馬は村に向いました。詩人の母や祖母はふるえる様によろこんでこの美くしくて幸多い人の行末をどうぞまっすぐに行く様にと夕のおいのりはいつもより倍も倍も久く時をかけました。その翌日もその翌日も楽しく嬉しく望多い日が経ました。一週間たって若い力のある人々のあつまって居る文壇に一つの可愛い姿をした詩集が顔を出しました。何か変ったものがほしい、何かめずらしいものがほしいと思って居た人々はそのめずらしいお客様を早速手にしました。人々はそのめずらしい旅の様子に驚かされその美くしくてやさしい歌言葉に驚かされました。本の評判は見る見るあがって日々の新聞にはいろいろの人がいろいろな目をもって評して居ました。けれどもどれ一つとしてそのものを悪く云ったものは一つもありませんでした。その筆の達者な美くしい詩を書く人はどんな世なれた人かと思ってその住居を訪ねた人は母にたすけられて出て来た美くしい女の様な目の大きな少年がその作者ときいて驚はますます深められました。世間の人々は美くしい人をなお美く
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