しく云いひろげて世の中からは詩の神様が人の世に姿をあらわしたかの様に尊びました。家の中、村の中はこの一人の少年のために嬉しさがみちみちてあの様な立派な詩人をもって居る村、あの様なえらい人を産んだお母さんと云いそやされました。ローズは自分よりもよろこんで朝夕人の噂にはほほ笑んで居ました。三日たち四日たち十日位は夢の様に立ちました。十日立っての日ローズの部屋を訪れた詩人のかおは今までになく青ざめて目はうるんで何とも云わない内にローズの胸にすがって大きい目から涙を流して居ます。ローズは何でも動きやすい若い詩人の心をよく知って居ました。しずかにその頭を抱いてしずかなやさしい声で云いました。
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ロ「どうしたの、どうして悲しいの。お母さんにしかられて。それとも美くしい小鳥か、貴方の知ってる人が死んだの」
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詩人はだまって頭を左右にふって目をふせて居ます。ローズは、花の落ちるのにも小鳥のつめたくなったのにも涙を落す、詩人の心をさっしてするままにまかせて居ます。けれどもその胸と目にはやさしみと暖さがみちて居ました。しばらく立って白い歯の間から細いふるえた声で、
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詩「ローズローズ、あなた外姉さまはないんモンネ」
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あとは何とも云わないで大きい目を見はった美くしい人の口からもれる声をまって居ます。
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ロ「そうでしょう、それともそうじゃあないの。何? どうしたの、云って頂戴」
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自分が待ちもうけて居た答よりあんまりあっけない答を聞いてがっかりした様に又目をつぶって胸に若い乙女の柔さ温さを包んだ胸に人の涙を誘うほど美くしい詩の書ける貴い頭をうずめました。しばらくの間そのまんま、「アラビヤン・ナイト」の手をさわるとすぐ動けな[#「けな」に「(ママ)」の注記]る石にさわった人の様に身じろぎもしないで美くしい絵の中の人の様にして居ました。少年の顔は段々紅さして涙にうるんで居た眼は新らしい望を一っぱいにためた様にかがやきました。かすかな美くしい声は云いました。
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詩「ネエ、姉さま人間は一度は死ぬんですネ、私が年をとったらいやでもおうでも別れて死んで行くんでスネ。一変[#「変」に「(ママ)」の注記]は死ぬものです、人間は、ネエ、そうでしょう、どうせ一度しななくてはならないんですもん」
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淡く紅さした頬は白い歯を出して淋しい笑をうかべました。その様子の美くしかった事。
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ロ「私の可愛い人何故今日に限ってそんな事を云うの。何か貴方につらい事でも出来たの。どうぞ、貴方の一人しきゃあない私におしえて頂だい。まだ若い貴方がどうしてそんな事を考えたの。お忘れなさい。そして華な将来をお考えなさい。世界に有名な詩人、その人のそばに始終かげの様について居た私のその時の嬉しさ、ネ、考えて御らんなさい。私悲しくなって来る」
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教える様にさとす様に云いましたけど、ローズだってまだ娘なんですもん、美くしい小い詩人の頭の中に考えられて居る事がどうして世間知らずの生娘に分るもんですか。自分までたよりない様な悲しい気持になって目からは熱いものがにじみ出ました。考えるともなしに今までの事を思い出して居ました。フト森の女、白鹿に育てられた女、と云う事がスーと目の前を走りすぎた車の提灯の光の様に思い出されました。
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ロ「アアあの森の女、キット常の世のものとはちがうにきまって居る、それにあの別れる時に何と云っただろう、『あなたはとうとう私の心を知らずにかえっておしまいになるのネ。いつか貴方が思い出す時がありましょう。私はどうしてもあなたの心に入らなくてならない』オオ、マア、何と云う気味悪い言葉だろう、キット、キット、あの森の女の蛇の様な心がこの美くしい詩人の心をいためて居たにちがいないんだ。おお恐ろしい、オオ気味の悪い」
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身ぶるいをしながらソット詩人をのぞきこむと安心したらしい安なかおをして暖い胸によってかすかないびきを立てて居ました。
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ロ「マア、いつのまにか、キット夜ねられないで居るのだろう、可愛そうに、私は胸が折れてしまうほどつかれてもこの美くしい人の眼はあけさせますマイ」
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ふるえた小さい声で云ってしなやかな体をきつくだきしめました。話す相手もなく人形のような人を胸に抱いて居るローズは森の女の一度だき〆めたら死ぬまではなさないと云う様な目や、つめたい空気にみがかれた青白い細いかおを思い出しました。そして今自分の胸によって居る人の命がその目の見る度に段々、短くなって行く様な気がして、
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ロ「イイエ何と云ったって駄目なんだから、ここに私が自分の命にかけても守って居るんだもの、どんな悪魔だって、エエエ、大丈夫だ、きっとどんなにでもして守らなくてはならない。大丈夫なんだから。だけれども何だか悲しい。ネ、私の可愛い人。どんな事があっても森の女の手から逃れなくてはいけなくてよ」
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家のまずしい娘が始て美くしい着物をもらって着る事を忘れた時の様な気持でローズは自分の胸によって居る人の自分の身に似つかない尊い人の様に思われました。日が段々西に落ちて窓のガラスは五色にかがやいて居ます、けれども詩人のねむりはまださめません。「一ツ星を見つけた、運がよくなれー」と半ズボンの小供が叫ぶ頃ようやく目をさました人は、今更の様に自分がよくねて居たのを驚く様に又自分がついウトウトとしはじめてから今までの間ずいぶん長い間、自分をビクともなせないで胸をかして呉れた人の心が段々心にしみて来てたまらない様な声で〔以下欠〕
底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年1月29日作成
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