さんは自分の孫の此の上なく美くしい寝がおを見守っています。詩人が目をさましました時夕飯の頃にもうなって居て自分はいつの間にか雪の様に白いベッドの中にうつされて枕元には着かえるべきサッパリした着物も出て居ました。詩人は大きく目を開いて天井の一隅を見つめました。何故か大きい力のある目はうるんで居ます。美くしい詩人は彼の森の女が泣きたおれて正体もない様子を夢見たんでした。それは只夢でしたけれ共、若い心をもった詩人の心からは涙が出るんでした。けれども起きなおってその着物を着て髪をかきつけて出て行きました。夕飯はたのしくすみました。詩人は母が好物だというのでわざわざとってくれたローズの目の様な美くしいブドーを吸いながら、雪の日に旅立って門を出た時の事から今日門をくぐる時までの所を丁寧に話しました。母親も祖母も不思議な物語の様な話に耳をそば立てました。朗な声の調子は丁度奇麗な物語をよんでいる様に様々の事を話して行きます。やがて話はおわってお婆さんは息を深くしていいました。
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婆「貴方は幸なお子じゃ、きっと偉い詩人におなりじゃろう」
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母「ほんとうにおはげみなさい、幸の多い子ですこと」とよろこばしそうに云って又もう一つブドウをつまみました。詩人はだまって手をふきました。頬には紅がさしています。しばらく立って詩人は私は書かなくてはなりませんからと云って桃色の燈火の美くしい部屋に入って鵝ペンにインクをふくませました。目は上を見て手は生き物のようにみどりのラシャの上によこたわっています。そのやわらかい胸の中には何かうかびました。白い紙の上に一字、しなやかな美くしい字がそめられました。又一字、また一字、二枚の紙は美くしい文字にうずまり、また一枚も一枚も、テーブルの上には四枚の紙が黒い文様をつけて散りました。そうするとどこかで美くしい歌の声がきこえます。筆の行かなくなった詩人の耳はその方にかたむきました。乙女らしい細いやわらかいふるえる声はやみの中にしめってつたわって来ます。声はローズにちがいありません。少年は、二階にかけ上りました。一番はじのまどをあけて歌の調子に合せる様に、
詩「ローズ、ローズ、私よ」高く低く夢を見るような声で。
 歌の声はやんで白い姿がやみの中にうくように見えます。
詩「ローズ、なぜ歌をやめたの、私は今まで書いていたけれ共貴女のうたにさそわれてここまで来たのに」女のような声でうらむように云いました。
 詩人の頬は少しあつくなりました。白いかげは云いました。
ロ「私は貴方の声をしばらく聞きませんワ。どうぞ一つきかせてちょうだい。美くしい可愛い私の弟」ふるえている声です。空に月はありません。小ぬか星はキラキラまたたいて下の芝生に白い花は見上げるように咲いています。詩人はそれを見下してその目を上げて云いました。
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詩「姉さま、私の姉さま、何かうたいましょう、そしたら姉さまも一つ」
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 詩人はそのやさしい腕をむねにくんで赤い唇を開いて詩《うた》いました、それは即興の美くしいやさしい詩でした。それは、「私は今美くしいローズの香をあびて身をふるわして居る。けれ共、意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪い夜のとばりは黒いまくでおおってしまってどうしても私に姿を見させて呉れない。にくい夜の闇よ、意志[#「志」に「(ママ)」の注記]悪な夜の神よ」と云う意味のものでした。まるでやさしいこんな夜によく似合った美くしい詩でした。詩人が両手をほどいた時に白い影から美くしい声が起りました。それは詩人がいつかローズと一所に野に行った時に即興にうたった歓迎の詩をたくみないかにもよろこばしそうにうたいました。若々しい声は夜の空気の中に美くしい脈をうちました。詩人はよろこびにみちた声で、
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詩「有難う有難う、お姉さま。私の家に来てちょうだいナ」
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ロ「有難う。だけれ共もうおそいでしょう。あしたあがりましょう。私の美くしい弟、もうおやすみなさい、またあした。そこにいつまでも居るとどくですもの」と云いました。詩人はつまらなさそうな声で云いました。
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詩「エエ」
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 両方共に声はありません。青い星がスーイと尾を引いて飛びました。闇の中にかすかな声で、
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詩「ローズ」
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と云う声が起りました。向うの白いかげもかすかな美くしい声で、
ロ「私の美くしい弟、早くお入りなさい、寒くなりますよ。いくら夏だと云っても、もう入りましょう。又あした。私は今夜ねむれますまい。キットあした又、あの山に行きましょう。さようなら私の弟、おやすみなさい」と云って白い影は動きました。
 詩人も、
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詩「それじゃアもう入りましょう、さようなら、お姉さま」
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 二つの影は内に入りました。詩人は又元の部屋で筆を運ばせました。筆がにぶるといつもやわらかい手が自分の手を持ちそえるような気持がして早く、かるく、美くしく筆が動くんでした。手燭をもって母が入って来ました。
母「貴方まだ書くんですか、つかれて居るんでしょう、もうおやすみなさい、私ももうねますからネ、またあしたの朝でもお書きなさい」と云って後に立ちました。
 詩人は、
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詩「エエもうよしましょう。けれ共、いまやめると忘れてしまいますものもう一寸だけ」
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 ねがうような目で見上げました。
母「それじゃあお書きなさい」と云って手燭の火を消して美くしい思を一寸でもこわさない様にと云うようにつまさきで歩いて白い手で達者に走らすペンのさきを見ています。細い鵝ペンの先からは美くしい貴いこれまで母の見た事のない美くしい程立派な詩が生れて来ます。母の目はよろこびと驚とにかがやきました。紙は十枚を出ました。
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母「もう休んでもよいでしょう、あしたになさい」
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 手しょくの火は焔のまわりだけ丸くかがやいています。母はもうゆるいナイトコートを着て房々した毛もとかれて居ます。詩人はおとなしくたち上って紙をかさねてその上にインクスタンドを置いて、
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詩「お母さん、どうもおまち遠さま。我まま云ってすみませんでした」
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 美くしい詩を作る人は親にもやさしゅうございました。
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母「いいえようござんすとも。立派な物さえ出来るなら私なんかいつまでおきていても」
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 かるく答えて先に立ちました。若い子の夢は円《つぶら》でした。朝まで白いベッドの中で、頬を赤くして唇をかるく開いたままで、朝起た時はもう日がスッかり出て居ました。隣のローズは薄色の着物を着てまどのそばに出て黄金色の大きな波うった毛を梳いて居ました。詩人は白いブカブカの寝着をきたまんまトントンと母の居間の戸をたたきました。母はうれしそうに笑みながら椅子から身を起して、云いました。
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 「お早う、よくねられましたか、着物をきかえて御飯をたべたら、ローズの所へ行って行らっしゃい。朝早く来て、よんでましたよ」
詩「そう、お母さま、どの着物着たらいいでしょう。私の体は少しは育ったでしょう。御飯はここでたべましょう」
母「着物、そうネ、それじゃア、今出しましょう、顔を洗ってネ」
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 嬉しそうにして出て行きました。詩人はほほ笑みながら、今日は何をして何をしてと上の方を見ながら思って居ました。母は水色のかるそうなそして白いかおに似合う着物をもって来ました。詩人はそれを着て御飯を飯[#「飯」に「(ママ)」の注記]べて、庭づたいにローズの居る窓の下に行きました。ローズの部屋の窓は低くて花園は前にあり、窓の中にはローズが一番窓に近いイスによって一心に何かよんで居ました。詩人は、ソーと窓から頭を出して見るとローズは一寸も気がつかない様子、ソーと身をうかせて手をのばして、そしてその柔な、うるおいのある頬を一寸小指のさきで突きました。そして又すばやく体をかくしてダリヤの色の中に身をうずめました。
ロ「オヤ、誰」若々しい声が窓の外にもれました。そしてその力のあるさとい目は赤い色の中にうずくまる小さいそして形のいい水色の体を見出しました。
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ロ「お早う、そんなにして居て貴女のその美くしい水色の着物がそのいやな色の花の汁にそんでしまうと大変よ、早く出て来て私が今朝貴方のために二度もあるいたお礼をしてちょうだい」
詩「バア、お早う、夕べは失礼、おかげでいい夢を見ましの[#「しの」に「(ママ)」の注記]」
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 若い美くしい人は朝日に小指の先をすかせながらまぶしそうに手をかざして云いました。戸口は開かれて、まだゆるい着物を着て、桃色のリボンの帯を裾に引くまでして片手に青い表紙の小形の本をもって顔だけ出しました。細い形の体はスーと吸い込まれた様にかくれました。まもなくそのまどの中に美くしい笑声がもれました。一時間がたちました。また美くしい細い形は戸口にあらわれて、
ロ「キットネ」と云う声に送られて自分の家の戸口に立ちました。
 二人は夕方から又向の山に行って歌をうたいましょうって約束したんです。それから夕方近くになるまで一人部屋で書いて居ました。時々窓をあけて新らしいすずしい空気を吸い込んで青い山や、紫の雲の影を見ながら又新らしくけずった鵝ペンに墨をふくめて書き綴けました。白い紙はみどり色のテーブルクロースをかけた、丈の高いいい形の矩形の上に雪の降った様にたまりました。それをかたはしからとじてよみかえしてそしてほほ笑みました。わりに早く夕方になりました。まだ日はすっかり落ちきれません、窓のわきのユーカリの葉がまっくろい化物の様な影を机の上に落して居ます。
詩「アア、おそくなると悪い、すぐ行こう、サゾ待って居らっしゃるだろう」と云ってそのまま庭つづきに出て行きました。手には白いかみとそして鉛筆をもって、
詩「ローズー、ローズ、まってたでしょう、行きましょう」窓の下で心地のいい声を上げました。
ロ「まってたの、早く行きましょう」机の上から何か小さい白い紙を取り上げました。二人のつり合った形のいい影は細い道をつたって森の中にかくれました。二人はなお遠く遠く歩きました。段々森のしげみが深くなって白百合の香が深くなって来ました。急に目の前に大きな水の緑の湖が開かれて向うの山はボーとかすんで居ます。二人はその岸の柔い草の上に坐を占めてしずかな世ばなれのした所で夢の中に居る様な柔いそして又たのしみの多い気持になって居ます。ローズは口を開いて、
ロ「アノ雪のひどく降る日貴方を出してから私は美くしい花びらを流の早い川に流した時の様な心地がして一日あの森の見える窓に立ちつくして居ましたの。心配でしたワほんとうに」と今更その時の様子を思い出す様な目をしました。年少い詩人もその時のたよりなかった時の心地から今日内にかえる時まで一寸の落もなく丁寧に話しました。まだ若くて珍らしいものをこのむローズの心には自分がいつか読んだ事のある物語がほんとうにあらわれて来た様な心地でききほれました。そして二人とも不事なそしておたがいにいくらかそだった体を見る事の出来たのを、「ほんとうに有難う神様」とくりかえしてよろこび合いました。不事にかえる筈ですわ、詩人は若くて美くしくてそして才があって家には沢山まちあぐんで居る人があったんですもの。日はもうすっかり暮れてくろくなった山のきわが月の出る時の
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