。向うの山の手の一粒に見える所に日が落ちて詩人の黄金の毛は美くしくかがやき女の小指のさきは美くしくすき通って居ます。
女「もうかえりましょう。日も落ちましたワ」と空を見あげてうっとりとした声で云います。
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詩「ほんとうにネお姉さま、貴女のかげと私の影がまっくろになって頭の方は一所になっていますワ。私の心は今、何とも云われない美くしい思いがしています。どうぞも少しこうやっておいて下さいネ」
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女「エエ、エエ、いくらでも。美くしい詩を私にきかせて下さい」と女はその美くしい想をやぶるまいとするようにそっとその手をにぎったまま、向うの山の上の方に目をやって、小さい口を少し開いて居る横顔を尊いマーブルの像でも見るような目をしてみています。旅人の口はかるく開いて夕づゝ[#「づゝ」に「(ママ)」の注記]を讚美のうたはまっかなハートからほとばしり出るようにうたわれました。情のたかまった若い十六にみたない詩人は此の世の人とも思われない女の胸によったまま手で胸を押えて目は上を見ながら美くしい美くしい声でうたって居ます。大きな目には一杯涙をためて頬は紅さしています。女は細い可愛いペンで薄色の紙に書きつけて行きます。はるかに羊の群をよび集める笛の音がかすかにひびいて来ます。少年のうたはいつか休みました。女の手の働もいつかおさまりました。二人は一つのかたまりになったまま身じろぎもしませんでした。詩人の目からは美くしいつゆが流れています。手は胸をおさえたまま。女は
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女「どうなさったの、私の美くしい人。お家が恋しくなったの」
少「イイエそうじゃアないの。私はいつでも夕方になると悲しくなるんですの。ローズと山に行って居てもきっと涙がこぼれるんですの。そう云う時ローズはだまって涙をこぼさせておいてから、あとで私の頭を胸によせて『私の可愛い人もうおなきなさるな』と云って自分の頬で私の顔の涙をぬぐって呉れます。そう云う時私はいつでも又一しきり胸にあたまをおしつけたまま泣くんです。時々ローズも一所に泣いて呉れます。自分もなぜだか分らずローズもなぜだか分らないんですの」胸の手はほどけて下に落ちました。
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女はだまったまま詩人の手を取って、
女「さあもうすっかり日も落ちました。かえりましょう」と云いました。詩人はだまって立ち上りました。二つの影は森の中に消えました。その夜のゆめもまどらかでした。けれども女は一度寝てから又起き上って長く長くのばした髪を指さきでいじりながらこんなことを云って又ねました。
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女「いくらローズが何と云ってもだめだ。私は彼の美くしい若い詩人を愛しているんだもの。どんな事があってもだめだ、私はほんとうに」
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翌日もその翌日も又その次の日も自分が前からのぞんでいたような美くしい日の暮し方をしました。一日に三つも四つも詩をうたいました。そのうちのどれもみな今までにないような美くしいのばかりでした。そこで二月くらしました。毎日、いろいろなめずらしい美くしい所許り見て、今日で二月になると云う日の夕今日も二人は森の中に居ました。夕日は美うあたりにかがやいて居た時でした。白い衣にマッカのルビーのブローチをして、水色のバンドをしめた女は若い詩人の頬に頬をよせて小さいふるえた声でささやくように云いました。
女「美くしい私の心の人、貴方は□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]と云う事を知っておいで」年若い人の頬にはほんのりと血がさしていつもより一しお美くしい声で云いました。
詩「私は知りません、けれ共ローズもそう云っていましたし又外の人の云うのもきいたことがあります『人の心の一番美くしく慾も誉も仇も争もなくなった時は恋した時の心だ』と云ったのを、私も物語で知っています、ほんとうに美くしそうなものです。けれども私は只心で思っている丈ですもの」と云いました。ほんとうに美くしい事をはなすにはふさわしく、美くしい声音で。
女「エエ、エエ、ほんとうに美くしい事ですワ、世の中にこれほど美くしいものは有りませんでしょう。ここにネ若し、或る一人の女が居るんです。その女がね、自分より年下のそれはそれは此の上もない美くしい人をもうたまらないほどに思っていたんですの。けれ共その人はあんまり若すぎました。それだもんでいくらどうしても女の心はわかりませんでした。それで女は死んでしまうほど悶えていたと云う話があるんですの。貴方はどうお思いになるの」少し頭をかかげて熱心に云いました。詩人は一寸困ったと云うような顔をしましたけれ共想像力の強い頭にはすぐうかんだ事がありました。
詩「可愛そうです事。私が若し女だったら、ネ、キットそうするでしょう。あこがれのあるやさしい心を持ったまま自分のすきな海か沼に入って死んでしまいましょう、その前にその男に会ってキッスしてもらってから。私ならキットそうするでしょう」と自分の身の上のように云いました。
女「それではネ、若しあなたをそれほどまでに思って居る人がすぐそばに居たら?」
詩「わかりませんワ。ほんとうに居るか居ないか知れないんですもの。あったと云って私はわからないんですもの」と、前ににげないそっけない事を云いました。女は情ない、たよりなげな顔をして両手を胸に交叉して云いました。
女「そんな御心、ソウ」と云ったきり何も云いませんでした。けれ共いつものようにうたをうたって胸によったまま詩をうたってかえりました。詩人は別に気にもとめませんけれ共女の顔には此の上もない愁の色がみなぎっています。片手を少年のうでによせてうつむき勝にかえっていつもの時間に「さようならよい夢を」と云って別れました。
詩人はすぐ床に入るが早いか夢に入りましたけれ共女は中々ねられませんでした。桃色のランプの影で細い頭をかかえてたえ入るような声で云いました。
女「アアやっぱり思った通りだった。どうしよう。けれ共しかたがないでしょう。まだ年がネ。アアさっきの言葉、美くしい思いを抱いたまま死ぬでしょうって。アそうだ、私はこんな胸を抱いて居るにはあんまり若すぎる。彼の人が行ってしまったらキット私はどうしても彼の人の心に入らなければアア」と云って白いクッションに頭を埋めたまま淋しい深い森の中にまよっている夢に入りました。翌日も翌日も女は年の若い詩人の耳に謎のような事をささやいていました。十日たってからの朝小い旅人は女に云いました。
詩「お姉様私の頭には詩が一っぱいになりました。だから家にかえってほんとうに書きたいんですけれど」すまないようなかおをしながら。
女「もうおかえんなさるの。ではお帰りなさいませ。そして一生懸命にお書きなさい。私はそばに始終居て守っていましょう。けれ共どうぞ森の中に一人で住んで居る鹿にそだてられた女の事をわすれずにちょうだい。どうぞね、きっと。そのしるしに」と云ってまっかなルビーを一つ美くしい人の手の上にのせました。そしてそのまんま手を握りながら、しめやかなしぼるようなそれでも美くしい声で云いました。
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女「貴方はとうとう私の心がわからないでかえっておしまいなさるのね――けれ共、いつか思い出して下さい。私の二人とない美くしい人。さようなら、さようなら貴方の道案内は小さい白犬がするでしょう。忘れて下さいますな、美くしいやさしい人」
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詩「さようならさようなら」と帽子を振りながら門を出ました。女のかおはいつまでもいつまでもみどりの木立の間に見えていました。
旅人は小さい白い小犬に誘われていつにもなく足早にそしてつかれずに歩きました。森を三つ許り越えた時目の前にもう村の入口が見えました。白い小犬の姿は見えませんでした。詩人はそこの立石のわきに腰をおろして汗をぬぐいながらいつの間にか、初夏の装をした村の様子を見まわしました。女達の着物はみんな薄色になって川辺には小供達がボートをうかべています。いつも行く森はまっくろいほどにしげってその中に美の女神の居る様な沼の事や丈高く自分の丈より高く生えている百合の事などを詩の人の頭にうかばせました。若い旅の詩人は大きい目をくるくる働らかせながら云いました。
詩「ああ、とうとう村に来た。もうすぐ私の家だ。私はもう彼の不思議な女と四月もくらして居たのだ。そして私はその間に不思議な所も見不思議な話もきいた。私は此れからそれを書かなくては。そろそろ私は早くかえらなくては。あの時ローズは私の手をにぎって涙を流しながらもほほえんで『私はネ貴方と遊べなくなるのがそれは悲しいのだけれども貴方のためだから泣きますまい。私は貴方のかえるまで誰とも遊びますまい。私のまって居るのを忘れてはいやよ』って云って私を送ってくれた。ほんとうにさぞまっていたんだろう。そうだ私は」と嬉しさのこもった声で云って前よりも一層早足で歩き出しました。やがて向うに六角の家が見えました。あれこそ若い旅の人の家とローズの住居なんですの。
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詩「見えた見えた」
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と呼んだ人はもうたまらないと云ったように走り出しました。六角の家の南がわの家の一番すみの窓に向って笑をまじえた美くしい声をはりあげて、
詩「ローズローズ、今かえったの」嬉しさに声はふるえています、やがて階を下りて来るかるい足音がきこえ出しました。重々しい扉はかるく開かれて闇の中にういたように白い美くしいかおがあらわれました。旅人は両手を胸に組んでそのかおを見つめました。美くしいかおは「アラ」とはじかれたように旅人のそばによりました。桃色の着物に白い靴の乙女と、水色の着物に白いリボンをむすんだ赤皮の靴をはいたしなやかな生え初めたわらびの様な二つの体は重いとびらの前にういたように見えて、そよ風は乙女の黄金色の髪と詩人の白いリボンとをゆらしてどこかに消えて行きます。足許に無雑作になげ出された真赤な毛糸は二人の足許にからみついてフワリフワリ何か謎をささやいている様にしています。嬉しさに何も忘れたとは云いながら三つ上のローズは、
ロ「貴方もうお母さんの所に行ったの」とききました。
気がついた詩人はすまない様な声で、
詩「まだ行かないの」
ロ「行っていらっしゃい。貴方のお母さんはどんなにまっていらっしったでしょう。夕方になると貴方の行った森の方を望[#「望」に「(ママ)」の注記]めて『まだかえらない』と云っていらっしゃったのよ。そして又来てちょうだい」くびに巻いていた手をほごしました。
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詩「エエ、行って来ましょう。あしたから私は書かなくてはならないの、そして不思議なお話を貴女にきかせなくてはならないんですもの。ローズ、またあとで」
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美くしい人のかげはとなりの門の中に入りました。詩人は内に入るとすぐ、
詩「お母さん、会いたかったのに」と云ってかけ入りました。詩人のまだ若い母はまどのそばでぬいとりをしていました。その声をきいてはじかれたように立ち上って、
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母「マア、よくかえってお呉れだった事」
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こう云った時にもう詩人の胸は母の胸によっていました。白い巾はみどりの波の上にういたようになって花びんのローズは美くしい子の帰ったのをよろこぶ様にかるくゆれています。その声をききつけてすずしい部屋でうとうとしていたお婆さんも、かるいかおをして入って来て、
婆「よくかえってナ」と云ってかれたような手で頭をなぜて白いなめらかな額にキッスして呉れました。にわかに家の中は色めき渡って急に夕飯のおこんだてをかえた母は白いエプロンのメイドと一所に心地よく働いています。
美くしい詩人は旅のつかれにやわらかいソファーにやわらかい光をあびて夢を見て居ります。白い頭巾のお婆
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