てふっと詩人は目をさましました、そして物おじをした様に女の胸にすがりつきました。そしてまだすっかり夢のさめない様な目ざしで神様の様な女の顔を見上げました。自分の身のまわりに百人の武士が守って居るより心づよい気がして。
二人はそのまんまいつまでも居たい気がしました。けれどもつめたい夜の空気は薄著な二人の体につめたくあたります。三つ上の女は自分の大切な人に風を引かせてはと思ってやさしい声で云いました。
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女「もうかえりましょう。寒くなりましたもん、家でもまってるでしょう、ネまた明日来ればいいでしょうネ、サア、もうお月さまもあんなに高くなったんですもの」
[#ここで字下げ終わり]
二人は月のさす小道を銀を引きのべた様な湖を後に家に向いました。森を出ると家々の灯はもうすっかりともされていかにも夏の夜らしい景色、二人は足をはやめてはじから三番目の灯の方に向いました。二人は戸口で、
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「さようなら、よいゆめを、又あしたネ」
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と云い合って別れました。お母さんとお祖母さんはかえりのおそいのに、少しいやな気持をしていましたけれど戸口にあらわれた快活な美くしいかおを見ては、
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「マア、おかえり、少しおそすぎましたネ。おなかがすいたでしょう、早く召上れ、お茶もあついから」とよりほか云われませんでした。
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お飯をたべて又自分の部屋に入って鵝ペンに墨をふくませました。それから白い紙の上をペンが走ると耳のそばで彼の森の女の通りな声で文句をよみます。それを自分の頭でねって綴りました。二枚三枚は見るまで五枚六枚またたくひまに書かれてしまいました。けれ共それにあとで赤い字を一字も入れるすきはありませんでした。いつの間にか入って来た母親はその句の美くしさとその筆の動とに思をうばわれて居ました。そして思いました。
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母「ほんとうにこの子は天才の子だ。私の望んで居た通り、否キット神様ののぞんで居らっしゃった通りの子なんだろう。マア、あの筆の動く様子。マアあの文の美くしさ。だれがあれが十六の子の文と思おうか。私はもうあの子がいつまで森に居ても体にさえさわらないなら叱る事はしますまい。あんな立派なものがずんずん出来るんだもの、ほんとうに」
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筆は益々かるく文は益々美くしく、白い手は段々早く走って少年の詩人の思は夜と一所にさえて行きます。しばらく立って見て居た母親も知らない間に来て知らない間に出て行きました。三時間立って時計が十二時をうった時又、母親はのぞきました。けれどもまだ灯の下で走るペンの音はやみませんでした。翌朝今日が向の山を出ると云う時に母親が詩人の部屋をのぞいた時は、机の上には白い紙にすきまなく文字のかかれたのが高くつんであって詩人はその間に安心したらしい顔つきでつよい朝日をよこがおにうけてかすかないびきをして居ました。母親はそうっと自分のもって居たやわらかい絹のショールをかけてつまさき立てて部屋を出ました。詩人が星の様な目を見開いた時にはもう台所から肉をむす湯気が立ちのぼって居る時でした。自分の体にかけられたショールを見それから昨夜の事から今までの事までを古い時によんで物語を人の話で思い出す時の様な気持で思い出しました。
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「私はローズと森から帰って来て、御飯をたべてここに来て、紙をのべてそれから一行書き出した時、耳のそばで森の女の通りな声で一寸つまると美くしい文句を教えてくれる、それを書きとって行くと後から人声がする。誰かと思って見るとあの時の通りのなりをした森の女が立ってジーと見て居た、だまって私のわきに来て手をとって筆をはこばす夢の様な柔い気持になってされるままになって居ると美くしい文は泉の様にとばしり出て白い紙には美くしくインクの模様が書かれる。そしてその森の女は手を置いて自分の耳のはたで、
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『私の小さい美くしい人、まだ私をお覚え。今夜っきり、おお今夜っきりもうあいますまい、けれどもいつか、キットいつか、そうださようならおたっしゃで』
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と美くしいすごみのある声で云って見えなくなってしまった、それからのことは自分の一寸も知らない、そしてそれから私は今までねつづけてしまったのだ。不思議な森の女、彼の女は森で別れる時に何と云っただろう。
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『私の小さい美くしい人、この森の中の一人ぽっちな女をいつまでも忘れないで居てちょうだい』と云ったっけ。
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不思議だ、私は何だか気味がわるくなった。早くあっちに行って母っかさんに会ってローズにも会お
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