送られて自分の家の戸口に立ちました。
 二人は夕方から又向の山に行って歌をうたいましょうって約束したんです。それから夕方近くになるまで一人部屋で書いて居ました。時々窓をあけて新らしいすずしい空気を吸い込んで青い山や、紫の雲の影を見ながら又新らしくけずった鵝ペンに墨をふくめて書き綴けました。白い紙はみどり色のテーブルクロースをかけた、丈の高いいい形の矩形の上に雪の降った様にたまりました。それをかたはしからとじてよみかえしてそしてほほ笑みました。わりに早く夕方になりました。まだ日はすっかり落ちきれません、窓のわきのユーカリの葉がまっくろい化物の様な影を机の上に落して居ます。
詩「アア、おそくなると悪い、すぐ行こう、サゾ待って居らっしゃるだろう」と云ってそのまま庭つづきに出て行きました。手には白いかみとそして鉛筆をもって、
詩「ローズー、ローズ、まってたでしょう、行きましょう」窓の下で心地のいい声を上げました。
ロ「まってたの、早く行きましょう」机の上から何か小さい白い紙を取り上げました。二人のつり合った形のいい影は細い道をつたって森の中にかくれました。二人はなお遠く遠く歩きました。段々森のしげみが深くなって白百合の香が深くなって来ました。急に目の前に大きな水の緑の湖が開かれて向うの山はボーとかすんで居ます。二人はその岸の柔い草の上に坐を占めてしずかな世ばなれのした所で夢の中に居る様な柔いそして又たのしみの多い気持になって居ます。ローズは口を開いて、
ロ「アノ雪のひどく降る日貴方を出してから私は美くしい花びらを流の早い川に流した時の様な心地がして一日あの森の見える窓に立ちつくして居ましたの。心配でしたワほんとうに」と今更その時の様子を思い出す様な目をしました。年少い詩人もその時のたよりなかった時の心地から今日内にかえる時まで一寸の落もなく丁寧に話しました。まだ若くて珍らしいものをこのむローズの心には自分がいつか読んだ事のある物語がほんとうにあらわれて来た様な心地でききほれました。そして二人とも不事なそしておたがいにいくらかそだった体を見る事の出来たのを、「ほんとうに有難う神様」とくりかえしてよろこび合いました。不事にかえる筈ですわ、詩人は若くて美くしくてそして才があって家には沢山まちあぐんで居る人があったんですもの。日はもうすっかり暮れてくろくなった山のきわが月の出る時の何とも云えない美くしい神々しい色になって遠くに見えたし、もの置いた様な羊ももういつのまにか影をかくしてしまいました。細くしなやかな銀笛は赤い詩人の唇によせられました、白いペンをもつよりほかにしらないきゃしゃな十の指はその夕やみの中に動いて小さい金具の歌々からはゆるいなつかしい夕暮の空にふさわしい音がふるえながらわき出しました。吹き出した夕暮の風はローズの金黄色の毛と笛を吹きすます詩人の髪とを美くしくもつらして居ます。笛の音は遠く遠く、羊を追う牧童の胸をまでそそるようにどっしりとして夕暮の闇をはいて居る木の間をくぐって遠く遠く、そのすぐわきに足をのばして白い靴のさきを見つめながら笛に気をとられて居たローズの目は段々に上を見つめて又その目は下に落ちて段々色々な色に変って行く湖の上に目を落しました。詩人は目をねむって短くてそしてほそい銀の笛にたましいをとられたようになって吹いて居ます。折まわした曲の末は遠く向うの山のかげに吸い込まれて笛の音は休みました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ロ「ありがとう」
[#ここで字下げ終わり]
 夢からさめた人のようにほほ笑みをうかべながら云いました。白い紙はひるがえされて白い歯の間からは美くしいそして娘らしい声がころび出ました。その文句はみな年若な人の鵝ペンのさきになったもんでした。始めの声はゆるやかにそしてひくく、次第に月の光の銀色になるにつれて歌声もだんだんたかくそうしてすんで行きます。詩人はその形のいい頭を女の白いやわらかい胸によせて目をねむってその歌をききとれました、ほんとうに美くしい声です。胸のかるい鼓動の音は詩人の心の底までひびいて行く様にうっています。女の手は白い紙からはなれてその若い人の美くしい頸を巻きました。やがてうたの調子はかわって夢をさそう様な美くしいやさしい子守うたになりました。詩人は目をねむったまま深い夢に誘われてしまいました。月は高くのぼりました。女の顔と三つ下の人のかおとを美くしく気高くてらして絵にもかかれない様な美くしさ、女の歌はやんで手は前よりも一層強くくびを巻きました。女の瞳はおののいた様にそしていい勢にかがやいてこの美くしい人をどうかするものがあったならどうして呉れようと云う様に水の上から山の方まで見わたしました。湖の上には白金の波がくだけて美くしい音楽を奏でて居ます。夜風が身にしみ
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