無題(一)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)細《コマカ》い

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 旅人はまだ迷って居ます。暗い森から暗い森の中へと、雪は一寸もやまず木々の梢と落葉のつもった地面とをせっせとお化粧をして居ます。まだ十六にみたない若い旅人は母の最後にくれたキッスと村はずれまで送って呉れた小さい小鳥のように美くしい女の笑顔を思い出して身ぶるいをしながら歩いて居ます。暗い暗い森は中々つきそうにもありませんでした。遠く遠くつづいて「どっちが西でどっちが東かしら、私はどっちに行ったら彼の美くしい国に行かれるのかしら」。旅人は八十になる白い頭巾をかぶって大キイ目鏡をかけた祖母に教えられてその住む村から七里西にある水の青い山の紫な乙女の頬の美くしい国へ歌枕さぐりに行くんです。細《コマカ》い小さい雪はかたまって大きい形になって落ちて来ます。
 みどり色のこいマントの上、赤い帽子の上とそしてやわらかで赤い長靴の上をポトリポトリとしめして行きます。頬はさむい風に吹かれて光をもって赤く、黄金色の毛は赤い帽子をもれてゆるく波をうってかたにかかって居ます。バラを一ひらつんで置いたような唇はキッとむすばれて時々かすかに歯をあらわして雪の詩をうたって居ます。若い旅人は若々しい情のある血のような詩をうたう人です。森の中に深く迷い入って困って居ながらも白銀のような粉雪を讚美するのを忘れませんでした。葉をふるいおとされて箒のようになって立って居る楢の木のしげみが段々まばらになって木こりのらしい大きながんじょうな靴のあとが見出されました。赤い唇は遠慮なくひらかれて「村に出た出た」と云いました。眼は一層大きく開かれて足元は定まって居ませんでした。「アア、村――村」小さいみどりの体は白い雪の中に一つ線をひきました。村に出た気のゆるみのためでしょう。けれ共、おこす人もなければなぐさめる人もありません。森から出た許の所、しかも雪の深い日ですもの。向うの遠い所から人が来ます。男じゃあありません。髪の長い美くしい白い着物の人です。スーとそばに来ました。そしてひざまずいて白いやさしい手で頭をかるくこすって青ざめた頬にべに色の頬をよせました。
 若い幸多い詩人の目はひらかれました。頬には段々紅の色がみなぎり出しました。眼にはよろこびとおどろきに此の上もなく美くしくかがやいて居ます。女は美くしいとおったこえで「どうなすったの、もうおなおりになって」詩人は森の中に育った児のように、たまに村から出た女達のするようにその気高い姿を見あげ見下しました。けれ共さとい美くしい詩人の胸には若い人の心にふさわしい思い出がわき上りました。きっとそうだそうにちがいないと小さい腕を胸に組んで「有難う、雪の姫様。貴女は私が不断から雪をこのんで居るのでこうやってたすけて下さったのでしょう。ありがとう姫様」とふるえた小さい声で云って女の美くしい手の甲に唇をよせました。
 女はかすかに身をふるわせながら「イイエイイエ、私はそんな者じゃあないんですの。ケドまア気がついてよかった。そうしてあなたはなぜこんな雪の日に一人旅をなさるの」「私は村から七里西の美くしい国に歌枕をさぐりに行くんです」「マア、そんな美くしい方があの美くしい国に行く、ほんとうに」と云ってその手を取ってだまってその美くしい瞳を見つめました。しばらく立って「行らっしゃい」美くしい女は立ち上りました。詩人はこのまままたつづいた旅をしたいんですけれ共何だか行かなくては悪いような、いつも自分を可愛がって呉れるとなりの十八の娘に会った時のようになつかしい、何かに引かれるような気持でだまったままそのあとにつきました。指のそろって長い女は赤いかわのギリシャの女神のはいて居るような靴をはいて白い衣の裾をヒラヒラと切ってかるくかるく行きました。詩人はそのあとを小走りについて、その時、若しそこに人が居たならそれを何と見たでしょう。キット、古い人のかいた名画の中の人がこの美くしい雪の色に誘われて来たんだと思ったでしょう。旅人は夢のような気持で何か暖いものに抱かれたような気持で歩きました。いつの間にか目の前に美くしい小さい家が出ました。白い煉瓦で形よくつまれて、まわりにはつたがからまって居ます。みんな紅葉したのが一っぱい白い花が咲いてまどには紫のガラス。「ここが私の家ですの、入って頂戴」詩人は女に手をとられて中に入りました。すぐ美くしいかおりは身のまわりをこめて来ます。雪の光は紫のカーテンやガラスにさえぎられて部屋一面に薄紫、椅子もテーブルも皆趣きのある形をして居ます。美くしい形にきられたストーブには富と幸福を祝うように盛に火がもえて居
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