は今夜ねむれますまい。キットあした又、あの山に行きましょう。さようなら私の弟、おやすみなさい」と云って白い影は動きました。
 詩人も、
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詩「それじゃアもう入りましょう、さようなら、お姉さま」
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 二つの影は内に入りました。詩人は又元の部屋で筆を運ばせました。筆がにぶるといつもやわらかい手が自分の手を持ちそえるような気持がして早く、かるく、美くしく筆が動くんでした。手燭をもって母が入って来ました。
母「貴方まだ書くんですか、つかれて居るんでしょう、もうおやすみなさい、私ももうねますからネ、またあしたの朝でもお書きなさい」と云って後に立ちました。
 詩人は、
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詩「エエもうよしましょう。けれ共、いまやめると忘れてしまいますものもう一寸だけ」
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 ねがうような目で見上げました。
母「それじゃあお書きなさい」と云って手燭の火を消して美くしい思を一寸でもこわさない様にと云うようにつまさきで歩いて白い手で達者に走らすペンのさきを見ています。細い鵝ペンの先からは美くしい貴いこれまで母の見た事のない美くしい程立派な詩が生れて来ます。母の目はよろこびと驚とにかがやきました。紙は十枚を出ました。
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母「もう休んでもよいでしょう、あしたになさい」
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 手しょくの火は焔のまわりだけ丸くかがやいています。母はもうゆるいナイトコートを着て房々した毛もとかれて居ます。詩人はおとなしくたち上って紙をかさねてその上にインクスタンドを置いて、
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詩「お母さん、どうもおまち遠さま。我まま云ってすみませんでした」
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 美くしい詩を作る人は親にもやさしゅうございました。
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母「いいえようござんすとも。立派な物さえ出来るなら私なんかいつまでおきていても」
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 かるく答えて先に立ちました。若い子の夢は円《つぶら》でした。朝まで白いベッドの中で、頬を赤くして唇をかるく開いたままで、朝起た時はもう日がスッかり出て居ました。隣のローズは薄色の着物を着てまどのそばに出て黄金色の大きな波うった毛を梳いて居ました。詩人は白いブカブカの寝着をきたまんまトントンと母の居間の戸をたたきました。母はうれしそうに笑みながら椅子から身を起して、云いました。
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 「お早う、よくねられましたか、着物をきかえて御飯をたべたら、ローズの所へ行って行らっしゃい。朝早く来て、よんでましたよ」
詩「そう、お母さま、どの着物着たらいいでしょう。私の体は少しは育ったでしょう。御飯はここでたべましょう」
母「着物、そうネ、それじゃア、今出しましょう、顔を洗ってネ」
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 嬉しそうにして出て行きました。詩人はほほ笑みながら、今日は何をして何をしてと上の方を見ながら思って居ました。母は水色のかるそうなそして白いかおに似合う着物をもって来ました。詩人はそれを着て御飯を飯[#「飯」に「(ママ)」の注記]べて、庭づたいにローズの居る窓の下に行きました。ローズの部屋の窓は低くて花園は前にあり、窓の中にはローズが一番窓に近いイスによって一心に何かよんで居ました。詩人は、ソーと窓から頭を出して見るとローズは一寸も気がつかない様子、ソーと身をうかせて手をのばして、そしてその柔な、うるおいのある頬を一寸小指のさきで突きました。そして又すばやく体をかくしてダリヤの色の中に身をうずめました。
ロ「オヤ、誰」若々しい声が窓の外にもれました。そしてその力のあるさとい目は赤い色の中にうずくまる小さいそして形のいい水色の体を見出しました。
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ロ「お早う、そんなにして居て貴女のその美くしい水色の着物がそのいやな色の花の汁にそんでしまうと大変よ、早く出て来て私が今朝貴方のために二度もあるいたお礼をしてちょうだい」
詩「バア、お早う、夕べは失礼、おかげでいい夢を見ましの[#「しの」に「(ママ)」の注記]」
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 若い美くしい人は朝日に小指の先をすかせながらまぶしそうに手をかざして云いました。戸口は開かれて、まだゆるい着物を着て、桃色のリボンの帯を裾に引くまでして片手に青い表紙の小形の本をもって顔だけ出しました。細い形の体はスーと吸い込まれた様にかくれました。まもなくそのまどの中に美くしい笑声がもれました。一時間がたちました。また美くしい細い形は戸口にあらわれて、
ロ「キットネ」と云う声に
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