した。かえりましょう」と云いました。詩人はだまって立ち上りました。二つの影は森の中に消えました。その夜のゆめもまどらかでした。けれども女は一度寝てから又起き上って長く長くのばした髪を指さきでいじりながらこんなことを云って又ねました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
女「いくらローズが何と云ってもだめだ。私は彼の美くしい若い詩人を愛しているんだもの。どんな事があってもだめだ、私はほんとうに」
[#ここで字下げ終わり]
 翌日もその翌日も又その次の日も自分が前からのぞんでいたような美くしい日の暮し方をしました。一日に三つも四つも詩をうたいました。そのうちのどれもみな今までにないような美くしいのばかりでした。そこで二月くらしました。毎日、いろいろなめずらしい美くしい所許り見て、今日で二月になると云う日の夕今日も二人は森の中に居ました。夕日は美うあたりにかがやいて居た時でした。白い衣にマッカのルビーのブローチをして、水色のバンドをしめた女は若い詩人の頬に頬をよせて小さいふるえた声でささやくように云いました。
女「美くしい私の心の人、貴方は□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]と云う事を知っておいで」年若い人の頬にはほんのりと血がさしていつもより一しお美くしい声で云いました。
詩「私は知りません、けれ共ローズもそう云っていましたし又外の人の云うのもきいたことがあります『人の心の一番美くしく慾も誉も仇も争もなくなった時は恋した時の心だ』と云ったのを、私も物語で知っています、ほんとうに美くしそうなものです。けれども私は只心で思っている丈ですもの」と云いました。ほんとうに美くしい事をはなすにはふさわしく、美くしい声音で。
女「エエ、エエ、ほんとうに美くしい事ですワ、世の中にこれほど美くしいものは有りませんでしょう。ここにネ若し、或る一人の女が居るんです。その女がね、自分より年下のそれはそれは此の上もない美くしい人をもうたまらないほどに思っていたんですの。けれ共その人はあんまり若すぎました。それだもんでいくらどうしても女の心はわかりませんでした。それで女は死んでしまうほど悶えていたと云う話があるんですの。貴方はどうお思いになるの」少し頭をかかげて熱心に云いました。詩人は一寸困ったと云うような顔をしましたけれ共想像力の強い頭にはすぐうかんだ事がありました。
詩「可愛そうです事。私が若し女だったら、ネ、キットそうするでしょう。あこがれのあるやさしい心を持ったまま自分のすきな海か沼に入って死んでしまいましょう、その前にその男に会ってキッスしてもらってから。私ならキットそうするでしょう」と自分の身の上のように云いました。
女「それではネ、若しあなたをそれほどまでに思って居る人がすぐそばに居たら?」
詩「わかりませんワ。ほんとうに居るか居ないか知れないんですもの。あったと云って私はわからないんですもの」と、前ににげないそっけない事を云いました。女は情ない、たよりなげな顔をして両手を胸に交叉して云いました。
女「そんな御心、ソウ」と云ったきり何も云いませんでした。けれ共いつものようにうたをうたって胸によったまま詩をうたってかえりました。詩人は別に気にもとめませんけれ共女の顔には此の上もない愁の色がみなぎっています。片手を少年のうでによせてうつむき勝にかえっていつもの時間に「さようならよい夢を」と云って別れました。
 詩人はすぐ床に入るが早いか夢に入りましたけれ共女は中々ねられませんでした。桃色のランプの影で細い頭をかかえてたえ入るような声で云いました。
女「アアやっぱり思った通りだった。どうしよう。けれ共しかたがないでしょう。まだ年がネ。アアさっきの言葉、美くしい思いを抱いたまま死ぬでしょうって。アそうだ、私はこんな胸を抱いて居るにはあんまり若すぎる。彼の人が行ってしまったらキット私はどうしても彼の人の心に入らなければアア」と云って白いクッションに頭を埋めたまま淋しい深い森の中にまよっている夢に入りました。翌日も翌日も女は年の若い詩人の耳に謎のような事をささやいていました。十日たってからの朝小い旅人は女に云いました。
詩「お姉様私の頭には詩が一っぱいになりました。だから家にかえってほんとうに書きたいんですけれど」すまないようなかおをしながら。
女「もうおかえんなさるの。ではお帰りなさいませ。そして一生懸命にお書きなさい。私はそばに始終居て守っていましょう。けれ共どうぞ森の中に一人で住んで居る鹿にそだてられた女の事をわすれずにちょうだい。どうぞね、きっと。そのしるしに」と云ってまっかなルビーを一つ美くしい人の手の上にのせました。そしてそのまんま手を握りながら、しめやかなしぼるようなそれでも美くしい声で云いました。
[#ここから改行天付き、
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