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女「貴方はとうとう私の心がわからないでかえっておしまいなさるのね――けれ共、いつか思い出して下さい。私の二人とない美くしい人。さようなら、さようなら貴方の道案内は小さい白犬がするでしょう。忘れて下さいますな、美くしいやさしい人」
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詩「さようならさようなら」と帽子を振りながら門を出ました。女のかおはいつまでもいつまでもみどりの木立の間に見えていました。
 旅人は小さい白い小犬に誘われていつにもなく足早にそしてつかれずに歩きました。森を三つ許り越えた時目の前にもう村の入口が見えました。白い小犬の姿は見えませんでした。詩人はそこの立石のわきに腰をおろして汗をぬぐいながらいつの間にか、初夏の装をした村の様子を見まわしました。女達の着物はみんな薄色になって川辺には小供達がボートをうかべています。いつも行く森はまっくろいほどにしげってその中に美の女神の居る様な沼の事や丈高く自分の丈より高く生えている百合の事などを詩の人の頭にうかばせました。若い旅の詩人は大きい目をくるくる働らかせながら云いました。
詩「ああ、とうとう村に来た。もうすぐ私の家だ。私はもう彼の不思議な女と四月もくらして居たのだ。そして私はその間に不思議な所も見不思議な話もきいた。私は此れからそれを書かなくては。そろそろ私は早くかえらなくては。あの時ローズは私の手をにぎって涙を流しながらもほほえんで『私はネ貴方と遊べなくなるのがそれは悲しいのだけれども貴方のためだから泣きますまい。私は貴方のかえるまで誰とも遊びますまい。私のまって居るのを忘れてはいやよ』って云って私を送ってくれた。ほんとうにさぞまっていたんだろう。そうだ私は」と嬉しさのこもった声で云って前よりも一層早足で歩き出しました。やがて向うに六角の家が見えました。あれこそ若い旅の人の家とローズの住居なんですの。
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詩「見えた見えた」
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と呼んだ人はもうたまらないと云ったように走り出しました。六角の家の南がわの家の一番すみの窓に向って笑をまじえた美くしい声をはりあげて、
詩「ローズローズ、今かえったの」嬉しさに声はふるえています、やがて階を下りて来るかるい足音がきこえ出しました。重々しい扉はかるく開かれて闇の中にういたように白い美くしいかおがあらわれました。旅人は両手を胸に組んでそのかおを見つめました。美くしいかおは「アラ」とはじかれたように旅人のそばによりました。桃色の着物に白い靴の乙女と、水色の着物に白いリボンをむすんだ赤皮の靴をはいたしなやかな生え初めたわらびの様な二つの体は重いとびらの前にういたように見えて、そよ風は乙女の黄金色の髪と詩人の白いリボンとをゆらしてどこかに消えて行きます。足許に無雑作になげ出された真赤な毛糸は二人の足許にからみついてフワリフワリ何か謎をささやいている様にしています。嬉しさに何も忘れたとは云いながら三つ上のローズは、
ロ「貴方もうお母さんの所に行ったの」とききました。
 気がついた詩人はすまない様な声で、
詩「まだ行かないの」
ロ「行っていらっしゃい。貴方のお母さんはどんなにまっていらっしったでしょう。夕方になると貴方の行った森の方を望[#「望」に「(ママ)」の注記]めて『まだかえらない』と云っていらっしゃったのよ。そして又来てちょうだい」くびに巻いていた手をほごしました。
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詩「エエ、行って来ましょう。あしたから私は書かなくてはならないの、そして不思議なお話を貴女にきかせなくてはならないんですもの。ローズ、またあとで」
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 美くしい人のかげはとなりの門の中に入りました。詩人は内に入るとすぐ、
詩「お母さん、会いたかったのに」と云ってかけ入りました。詩人のまだ若い母はまどのそばでぬいとりをしていました。その声をきいてはじかれたように立ち上って、
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母「マア、よくかえってお呉れだった事」
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 こう云った時にもう詩人の胸は母の胸によっていました。白い巾はみどりの波の上にういたようになって花びんのローズは美くしい子の帰ったのをよろこぶ様にかるくゆれています。その声をききつけてすずしい部屋でうとうとしていたお婆さんも、かるいかおをして入って来て、
婆「よくかえってナ」と云ってかれたような手で頭をなぜて白いなめらかな額にキッスして呉れました。にわかに家の中は色めき渡って急に夕飯のおこんだてをかえた母は白いエプロンのメイドと一所に心地よく働いています。
 美くしい詩人は旅のつかれにやわらかいソファーにやわらかい光をあびて夢を見て居ります。白い頭巾のお婆
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