たの街路を、黄色い乗合自動車、赤いキャップをかぶった自転車小僧、オートバイ、ひっきりなく駆け過るのが木間越しに見えた。電車の響もごうごうする。公園のペリカンは瘠せて頸の廻りの羽毛が赤むけになっていた。
ベンチのぐるりと並んだ花壇を抜け、彼等は常緑樹の繁った小径《こみち》へ入った。どこまでも黙って歩いた。やがて竹藪の間へ来かかった。
「みのえちゃん」
彼を見上げた口の上へ油井はキスした。
○
二定点間ノ最短距離ハソノ二点ヲ結ブ線分ナリ。
然し、みのえはジグザグ裏通りの狭いところを通って、女学校の往きに、時々油井の家へよった。会社員である油井も、電車へ八時半に乗らねばならぬ。
「一緒に行かない?」
或る朝、みのえは赤い鞣《なめし》皮の財布から五十銭出し、小さい一つの花束を買った。桶屋の前で、みのえの小学校で体操を教えた教師に出会った。桃色のカーネーション、アスパラガス、紅毬|薔薇《ばら》。朝日のさす往来でパラフィン紙を透きとおす活々した花の色が、教師をひきつけた。彼は、みのえの方へ黒い詰襟服のカフスをのばし、
「それ、お呉れ」
と云った。驚いて、みのえは花束を後にかくした。
「いやかい?――誰にやるの」
「いいひと!」
みのえは憤ったように本気な力を入れてそれを云い、さっさと自分の道を歩き始めた。
すがすがしい朝の花束に、教師の息がかかったのをみのえは残念に思った。彼女は油井の玄関を開けた時、少し悲しそうに、
「これあげるわ」
と、その花束を出した。
○
みのえは光りもののうちに生活している。彼女の内の発光体の眩ゆさで自分も外界も見えぬ。
○
油井は、お清夫婦とみのえを誘って活動写真など見物に出かけた。
「もうこれから帰るの面倒くさくなっちゃった。泊めて下さい」
そう云う翌朝、みのえは白々明けに目を醒《さま》した。心臓がとび出しそうな心持で、油井の泊った二階へ登って行った。
「早いのね、もう起きたの」
油井も起きていて、彼等は並んで窓枠に腰かけた。まだ門の閉ったままの隣家の庭がそこから見下せた。飛石に葉が散っている。門燈の光で露に濡れた小さい蜘蛛《くも》の巣が見える。四辺《あたり》はしめっぽく草木の匂いが漂った。
油井が、やがて云った。
「ああ、いい気持だ――みのえちゃん朝好き?」
「好き」
ずっと顔をさしよせ、
「私もすき?」
「…………」
頬笑み、木の実のような頬をしたみのえの手をとって、彼は、
「こっちへおいで」
と立ち上った。
彼は掃かない座敷の真中に突立って、確りみのえを擁《だ》きよせた。そして、幾つも幾つもキスし、自分の体をぐうっとかぶせてみのえを後へ反せるようにした。一度目より二度、もっときつく反らせた。
倒れるかと思って、みのえは両手で油井の羽織の背中をつかみ、
「あぶない、あぶない」
と、笑った。油井は真面目な顔で喉仏から出る声で、
「スウェーデン式体操」
と云った。
○
紫や黄や朱の縞のある新しいネルの元禄袖を着ているみのえの体から、いい匂いが発散した。
油井は、剪《き》りたての花でも見るようにみのえの坐り姿を見つめていたが、
「どうしてそんなに奇麗?」
と呟いた。
みのえは嬉しそうに、満足そうに笑った。みのえも今朝は何だか自分がいい匂いなのや、何か別の生物みたいなのを感じたのであった。
「ね、みのえちゃん、私と結婚してくれる?」
結婚という言葉はみのえに漠然と飛躍を期待させ、こわいような、珍しいような正体の解らない感動そのものがいい心持であった。みのえは黙って、黒いお下髪《さげ》のリボンが動くほど合点をした。
「じゃ約束してくれる?――約束すると他の人と結婚出来なくてもいい?」
みのえはまた合点をした。
いきなり、髭がみのえの頬ぺたを刺した。油井の顔が、みのえの視野一杯にひろがった。彼女は油井の眼が兎の眼のように赤かった気がし、夢中になって彼の胸に自分の顔をつっこんだ。
○
母親が縫物をひろげている。みのえは傍の小机に肱をついてぼんやりしていた。
「明日は土曜日だね」
「…………」
「油井さんまた来るだろうか」
「さあ、知らないわ」
みのえは冷淡さで自分の感情をカムフラージした。
お清はしばらく黙って袖の丸みを縫っていたが、表へかえし、出来上りの形をつけながら独言のように云った。
「あの人も早く奥さん貰えばいいのにさねえ。――もっともどんな気でいるんだか知れやしないが」
ふと語調をかえ、お清はおかしい秘密話でも打ちあけるように云いつづけた。
「こないだあの人の家へ行った時ね、話さなかったけれど、親父さんなんかい
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