ならなかった。
 更紗の小布団の横にみのえもころがって、子供に顔をいじられながら何かお伽噺《とぎばなし》をしてやった。古風な猿蟹合戦、または浦島太郎。
「ね、浦島さん、亀の子へのっかって海へ行ったのよ」
   浦島太郎は亀にのり
   波の上やら海の底
 みのえは唄っているうちに稚な心に戻った。鈍いような、鋭いような、一種液体のような幼年時代がみのえの発育盛りの不安な神経を覆う。彼女は子供と溶け合ってぼんやり転《ころが》っている。――
 突然、
「今晩は」
 みのえは、愕然として意識がはっきりすると一緒に、母親が自分の子をひとに押しつけ、身軽に油井を迎え、喋《しゃべ》ろうとしているのを感じ、泣きたいようになった。
 みのえこそ、真先にとび出したい者であった。けれども彼女は、パッと襖の立て合せから条になって洩れて来る光線を眺めるだけで、そこを動くことは出来ない。子供はまだ眠りつかない。
 中途で立って行けば子供は泣くだろう。
 母親のお清は、再び暗い、むつき臭い部屋へみのえを閉じ込めるであろう。
 いつまでも眠らない子供、自分に代ろうと思ってもくれない母親。みのえは、自分の体の中で赤いものや青いものが上になったり下になったり、銀座の夜店で売っている色紙細工の気味悪い遊び道具のように、のたくり廻るのを感じた。
 油井は、喉仏から出すような声で話した。
 自分が出て行く迄に油井が帰ってしまいはすまいかという不安で、みのえは死にそうであった。今は大切だ。一つの身動きで子供が目を醒したら最後だ。みのえは一筋に油井の声に縋《すが》りつきながら、一生懸命
「ねろ、ねろ、ねろ」
 呪文を称え、ぎっしり自分も眼を瞑《つぶ》った。息を殺して子供の寝息をうかがうみのえの前に、切ない待ち遠しさが光った道になって横わった。

             ○

 母親が先に立って行く。一間と離れず油井とみのえがその後に跟《つ》いた。それでも人波の間に紛れてしばしばお清の後姿は彼等のところから――お清からは彼等が見えなくなった。
 みのえはそれを楽しみ亢奮して売場、売場の間を歩いた。油井が着物を買うのに、お清母娘を誘い出したのであった。
「――一人で買いにいらっしゃいよ、番頭が見たててくれますよいい加減に」
「そりゃそうでしょうがね、三十にもなれば大抵細君がそんな心配はしてくれるものでしょう。侘しいですよ、ぽつねんと一人では」
 お清は、
「他に人がいないわけじゃあるまいし、とんだお役目ね」
と云って笑った。
 が、今先へ行く彼女の包みは油井の反物だ。
 午後三時のデパアトメントストア。天井に舞い上った風船玉。華やかなパラソル。リズム模様、最新流行モダーン染。
 ――上へ参ります、上へ参ります。
 ――美容術をやって見せるんだよ。
 ――だって二十銭も違うんだもん、そりゃそうだろう。
 緑色の仕着せを着た音楽隊はフィガロの婚礼を奏し、飾棚《ショーケース》にロココの女の入黒子で流眄《ながしめ》する。無数の下駄の歯の音が日本的騒音で石の床から硝子の円天井へ反響した。
 エスカレータアで投げ上げられた群集は、大抵建物の拱廊から下を覗いた。八階から段段段、資本主義商業の色さまざまな断面図。
 ――まだここから飛び降りた奴あねえ。
「もっとこちらへいらっしゃい」
 音や人目や色彩や、それが余り繁いので、つまり無いと同じ雑踏の中で油井はみのえの手を執り、自分の傍へ引きよせた。油井が大人の男であるのがみのえの満足であった。彼はけちな、直き赭《あか》い顔をする中学生ではない。母親の横顔はつい三四人隔てて見えているのに、実際油井の握って離さないのは自分の手だという歓びが、みのえを恍惚《うっとり》させた。油井は、髭と瞼が西日に照らされるような顔付で、そっと訊いた。
「くたびれたの」
 みのえは黙っていいえをした。
 ――
「さて――これから油井さん貴方どうなさるの」
 往来へ出て、みのえは急に空気が軽くなったような心持がした。
「わたし、どうせここまで出たついでだから浜町へ廻って行きたいんだけれど……」
 お清は、みのえを見た。
「叔父さんのところへ来るかい」
「いや」
 油井が、みのえの方は見ず、
「じゃ、奥さん行ってらっしゃい、私、みのえさんを家まで送って行きますから」
と云った。
「そうですか、じゃそう願おうかしら」
「丁度いい。来ましたよ、築地両国でいいんでしょう」
 電車へお清を押し上げ、窓から歩道に向って頭を下げた彼女を乗せたままそれが動き出すと、油井はみのえを連れ、ぶらぶら歩き出した。
「ちょっと日比谷でも散歩して行きましょう、ね」
 彼等は公園の池の汀に長い間いた。噴水が風の向のかわるにつれ、かなたに靡《なび》きこなたに動きして美しい眺めであった。低い鉄柵のかな
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