やしなかったんだよ、いやじゃあないの。あんなに、親父さんが会いたいって云うって招《よ》んどきながらねえ。私が帰るまで影も見せやしない。だから私云ってやったんだよ、油井さん、見かけによらないんですねって。さすがに何か云い訳してたけど……」
その日、お清はみのえを連れて油井の家へ行った。油井のところからみのえだけ母親の代理に一人浜町へやられた。叔母と向い合っている間じゅう、叔母の眼鼻だちのすき間に油井の二階に坐ってこっち向いている母親の姿がちらちらして、みのえは自分で何を喋っているのか分らなかった。その気持が母親の話でみのえの記憶に甦った。彼女は、その感情を心にかみしめながら、
「そいでどうしたのよ」
と云った。
「どうもしやしないけどね……でも変さねえ私がひとり者だったらどうしたって結婚するだの、どこかへ出かけようだのって――あの日芝居へ行こうってきかなかったんだよ」
「ふうん」
浜町へ行きたがらないでじぶくっていたみのえに、
「いい子だから行ってらっしゃい、ね、ね」
油井は、ね、ね、を特別な眼つきと言葉の調子とで云い、みのえを玄関へ送り出してキスした。
再び油井の家へ帰って来た時も油井が直ぐ二階から降りて来た。そして、みのえの手を引っぱって二階へ連れ上った。
――云いたいことが沢山あるようで、それが何か分らない、唯ひどく心を押しつける。みのえはしょげて黙った。油井がいやな人のように思われ、悲しくなった。お清もいつか真面目な眼付きになって手を動していたが柱時計を眺め、
「どれ」
と縫物を片よせ始めた。
「こんなこと、誰にも云うんじゃないよ」
みのえは素直に合点をした。
それは、もう秋であった。
暑いが、草木を照す日の光が澄み渡って、風が乾いた音で吹いた。
みのえは家を出て、赫土のポクポクした空地を歩いて行った。広い空地で、ところどころに赫土の小山があった。子供が駈け登ったり、駈け下りたりして遊んでいる。その叫び声が、高い秋空へ小さく撥《は》ねかえった。赫土には少し、草も生えているし、トロッコの線路も錆びている。
Lをさかさにしたような悠《ゆる》やかな坂をみのえはのぼった。坂の上は草原で、左手に雑木林があった。その奥に池があった。池は凄く、みのえ一人で近よれない。みのえはだらだらと下った草原の斜面に腰を卸《おろ》した。
百舌鳥《もず》が鳴いていた。空にある白い雲が近くに感じられた。みのえの体のまわりにある草の中に、黒い実のついたのがあった。葉っぱが紅くなったのもある。一匹のテントウ虫が地面から這い上って、青い細い草をのぼった。自分の体の重みで葉っぱを揺ら揺らさせ、どっちへ行こうかと迷っているようであった。地面の湿っぽい香と秋日和の草の匂いとが混ってある。
みのえは、涙を落しそうな心持で、然し泣かずそこに足をなげ出して虫や草を眺めていた。少し病気になったようにみのえは奇妙な心持であった。母親も油井もいやで、がっかりして、風も身に沁みる、空の高さも、そこに飛び交う蜻蛉《とんぼ》も身に沁みる。魂が空気の中にむきだしになっていた。
長い時間が経った。
みのえは、背後で荒っぽく草を歩みしだく跫音《あしおと》を聞いた。みのえは自分の場所からその方を見たら、一人の十六七の小僧が立って放尿していた。白いシャツに腹がけをしめ、何故か脚の方はすっかり裸であった。
みのえは直ぐ正面を向いた。
小僧は草をこいで段々みのえの傍に来た。一歩一歩近づくのが判ったが、みのえは恐怖で痺《しび》れ体を動かすことが出来なかった。眼尻を掠め、股まで裸の二本の脚と穢《きたな》い体の一部が見えるくらい傍によった時、小僧は低い震えるような声で、
「――……」
と云い、みのえの正面へ立ちはだかろうとした。みのえは、のっそり立ち上り、小僧を睨みつけると、物も云わず片手にキラキラ閃くものを振り翳《かざ》し小僧に躍りかかった。
気がついた時、みのえは元よりずっと草原の上の方に跳ねとばされていた。四五間下の方に、小僧も倒れた。彼等は互に睨み合いながら、獣のように起き上った。みのえは、後じさりにそろそろ上の坂の方へ出ながら、組打ちした場所と思わしい辺をちょいちょい見た。リボンで帯につけていたエ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァーシャープを彼女は振り廻したのであったがそれが環のところから※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《もぎ》れてどこへか行ってしまった。
小僧は、じろじろみのえの方を見ながら草をこいで草原の縁へ出、つぎの当った股引《ももひき》をはき始めた。その時、路の彼方に大人の男が現れた。パナマの縁をふわふわさせながら。――
みのえは、坂を下り出した。子供の微かな叫び声と、赫土の空地が行手にある。あたりは先刻《さっき》の通り静かで
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング