とも、現代の任務の一つな筈である。
そんなことを考えていた折から河出書房版、新世界文学全集第十一巻、シチェードリンの「ゴロヴリョフ家の人々」が配本されて来て、非常に興味をひかれ、今三分の二ほどよみ進んでいる。
この小説の訳者は、少くとも原文に忠実であろうとするあらゆる努力を惜んでいない。意味に忠実であるばかりでなく、シチェードリンのむずかしい文章の脈うちの特徴や、作品人物の性格的な物言いの癖までも日本文のなかに捕えようと試みていて、そのために、一応「わが友」と書いた字のよこへ、お前、お前さん、君、とふりがなをつけて読ますことも敢てしている。こういうこまかな表現にこそ、外国語のニュアンスの移植のむずかしさがひそめられているということを感じさせる。(しかし、こういう工合に二重に重ねる字のつかいかたについては、疑問がのこされているが)
それらの努力の窺《うかが》える真面目な訳であるのだけれど、読んでゆくうちに、訳文全体の調子が、一種の低さを感じさせるのは、何故だろう。何となし、訳文の精神とでもいうべきものが、もう少し高められていたら、どんなに完璧な芸術のよろこびが感じられただろうと思え
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