、云わば一番その作者らしくその作品らしい精髄はぬきすてたあとの、至極常識的な語感でもわかる部分だけ買わされ、よまされているということになるのである。
 ブルージェの「死」、「家」が流行したらしいけれども、あの訳について、日本の文章としてだけよんでも、何か腑に落ちないものがあるを感じた人はなかっただろうか。概して今日の読者は、作品をそんな風に感じてよんだりしなくなっていて、題だの筋だので買うとでも云うのだろうか。
 文化の粗末さについては、作家もいくらかの責任を感じなければならないと思った。せめて文学書の翻訳に対して、作家は作家として、もう少し責任ある関心をもち研究や発言もして行かなければならないのだと思う。さもないと、読者は、フランスの世界史的意味の退敗をさえ、ブルージェが夙《つと》に「家」で警告していたとおり、家の観念の崩壊がフランスの今日をあらしめたというような、牽強も甚だしい広告にもつられなければならない。いい加減の訳をよまされた上、景品として世界的現実の劇画まで与えられることは、私たちとして辞退したく思うのである。
 体位の向上がひろく云われている以上、精神の体位を向上させるこ
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング