動に総動員せずにはおかなかった。
 窪川稲子が一九四六年六月に発表した「女作者」のなかで、その頃彼女までが報道員として戦争協力にまきこまれていったいきさつを、えぐり出して語っている。「兵隊や兵隊を送った家族の女の感情にもひきずられてその女の感情で」中国へも南方へも行ったのであったが、一九四五年八月十五日がくるまで日本の人民を虚偽の大本営発表であざむきつづけた軍部としては、彼女たちの「泣いて語る話が手ごろに必要だったのである」と。

 明日へ[#「明日へ」はゴシック体](一九四五―一九五〇)

 一九三九年から一九四五年までの世界第二次大戦は、世界二十億の人民に次のことを教えた。民族の独立と人民の生活の安定のために、帝国主義、国際ファシズムと闘い戦争をこの地球から絶滅するのは、人民の偉大[#「人民の偉大」に傍点]な事業であると。なぜなら、どの戦争でも殺されなければならないのは常に人民であり、その殺戮はますます大規模になっているのだからと。中国は中華人民共和国となりアジアとヨーロッパに民主勢力が拡大した。戦争でもっとも大きい犠牲を払った四十三ヵ国の婦人たちは、国際民主婦人連盟を組織し、世界の進歩的な労働者は、世界労働組合連盟に結集した。中国・朝鮮の婦女連盟、英国の主婦連盟、日本の民主婦人協議会などは、それぞれの地域の具体的な条件にたって平和と人民生活の擁護のために奮闘しはじめた。青年の国際組織もつくられた。こんにちすでに十数億の人民が平和と原子兵器禁止のために結集している。
 一九四六年から四七年の春頃までの第一期(ポツダム宣言の実行ということがもっとも正直にうけとられて、日本民主化の課題が政治・経済・文化の各面にわたって世界の良心によって監視されていた時期)日本の文学が新しい成長をもってやけ跡から芽ばえるために、民主主義文学運動の中心として「新日本文学会」が組織され、雑誌『新日本文学』が発刊されるようになった。同時に『人民短歌』のグループと民主的詩人の活動も開始された。世界の人民的な民主主義の本質にしたがって、日本の民主主義文学運動もその主力を労働者階級の文学におき、世界と日本のプロレタリア文学運動の成果を批判し継承しながら、多様でひろい人民層の民主的意欲を表現する新鮮な文学をもとうとする方向に発足した。
 一九四六年の一月、久しぶりで再発足したいくつかの商業雑誌がこぞって永井荷風の「浮沈」「踊子」「問わずがたり」などをのせ、ひきつづいて正宗白鳥、宇野浩二、志賀直哉などの作品をあらそって載せた現象は、日本の悲劇の一面をあらわした。商業雑誌は、戦争協力をした作家をさける必要を感じた。編輯企画の行われた前年の八九月は、まだ治安維持法が撤廃されていなかった。したがって、もとのプロレタリア作家の作品を求めることには不安があった。これら二つの条件をさけて、しかも戦後にひろがった雑多な読者層、文学作品とよみもの[#「よみもの」に傍点]との区別を忘れ、或はそれをしらずに戦争の年々を育って来た読者層を満足させるために安全なプランといえば、「おかめ笹」「腕くらべ」などの作風によって親しみやすく思われている永井荷風に着目することとなった。
 一方『近代文学』『黄蜂』などは、『新日本文学』とはちがった角度から、新しい文学の誕生のために努力した。『新日本文学』は小沢清「町工場」つづいて熱田五郎「さむい窓」、林米子「矢車草」など、職場に働いている労働者作家の作品を発表しはじめるとともに、徳永直「妻よねむれ」、宮本百合子「播州平野」などをのせはじめた。
 永井荷風によって出発したジャーナリズムは、インフレーションの高波をくぐって生存を争うけわしさから、織田作之助、舟橋聖一、田村泰次郎、井上友一郎、その他のいわゆる肉体派の文学を繁栄させはじめた。池田みち子が婦人の肉体派の作家として登場した。丹羽文雄、石川達三などは風俗小説をとなえて、戦後の混乱した現実を写してゆく文学を主張した。けれども肉体の解放によって封建性に反逆し、人間性を強調するというたてまえの肉体文学が、要するに両性の性に、人間性を還元した文学にとどまり、風俗小説がその傍観的な立場をすてて進むべき方向を見出せないままに現象反映の文学に止まっていることについて、批判がおこってきているのは当然であった。
 太宰治の虚無にやぶれた文学も、戦後の特権階級の没落と、その感傷とに共感する小市民生活の気分にむかえられた。
 一九四五年の冬から活溌におこった労働組合の活動と労働者階級の文化活動は、支離滅裂に流れてゆく商業的な文学の空気を貫いて文学サークルを生み出し、全逓従業員の文学作品集『檻の中』、国鉄の詩人たちの詩集、自立劇団の誕生につれて続々あらわれた堀田清美、山田時子、鈴木政男、寺島アキ子その他の人々の新しい戯曲などがあらわれた。新日本文学会は勤労者文学選集二冊、新日本詩集三冊、新しい小説集三冊を刊行することができた。
 一九四八年十二月に東條をはじめとする戦争首謀者たちの処刑が行われ、その犠牲において児玉誉士夫のようなファシズム文化の運動に関係ある日本のファシスト戦犯が大量に無罪釈放されて民間にまぎれこんだ。このことは、日本民主化のために重大な害悪となっている。
 一九四九年の三月、保守陣営が絶対多数をしめてからの日本は、基本的人権に関するあらゆる面で人民の側からポツダム宣言の忠実な履行を、あらためて要求しなければならない状態になった。
 戦争挑発に反対して平和を守ろうとする闘いと民族の独立、日本が軍事基地化されることに反対する男女の声は、文化・学問の自由を守る要求とともに科学者文学者のひろい層の発言となった。文学者の平和を守るための動きは、労働者階級の平和擁護の運動と結合してすすめられるようになりつつある。作品としては肉体派の文学を書いている作家たちも、平和と全面講和の要求にはその名をつらねている。
 文学の分野に出場して来た婦人の層は一九四六年以来、非常に立体的に広範囲になってきた。平林たい子の「盲中国兵」「終戦日誌」「一人行く」「こういう女」などは、作者のアナーキスティックな資質は変らないが、戦時中彼女がこうむった抑圧の記録として、また中国捕虜のおそるべき運命の報告書として、強い感銘を与えるものであった。その後この作家が「地底の歌」という新聞小説の連載によってやくざ[#「やくざ」に傍点]の世界の描き手となったことは注目される。作者は日本の暴力、やくざの世界が市民生活の民主化を妨げ(例えば「暴力の街」)、労働者の生命をおびやかすものとして(読売の争議その他の争議へのなぐりこみ)権力に利用されていることについて具体的な知識をもっている筈である。「地底の歌」はやくざの世界の封建性を批判しようとしながら、作者は彼等の世界にある人情に妥協して、反民主勢力としての日本のやくざ[#「やくざ」に傍点]の反社会性をえぐり出していない。自他ともに「逞しい生活力」を作家的特質として認めているこの婦人作家の今後の動きは注視される。
 佐多稲子は「私の東京地図」をもって新しい出発に踏みだした。この連作で作者は戦災によってすっかり面がわりした東京の下街のあすこここを回想的に描き出しながら、そこを背景として、一人の勤労する少女が働く若い女となり、やがて妻、母として階級にめざめて行ったみちゆきを描いた。「私の東京地図」と「女作者」「虚偽」「泡沫の記録」などをよみあわせたとき、二十年前に「キャラメル工場から」を書き、プロレタリア文学の歴史に一定の業績をのこしているこの作家が、複雑な良心の波にゆすられながら、民主主義の婦人作家として自身に課している努力を理解することができる。
 過去十二年の間わずか三年九ヵ月ばかりしか作品発表の自由をもたなかった宮本百合子は、一九四五年十一月頃から「歌声よ、おこれ」などの民主主義文学についての文学評論のほか、「播州平野」「風知草」などにこの作家にとって独特であった解放のよろこびと戦争への抗議を描き出した。「伸子」の続篇として、一九二七年以後の二十年間の社会思想史の素描ともなる「二つの庭」、「道標」第一部、第二部がかかれ、目下第三部が執筆されている。この長篇は日本の中産階級の崩壊の過程と、その旧い歴史の中から芽ばえのびてくる次代の精神としての女主人公の階級的人間成長を辿りながら、一九二七―三〇年ごろのソヴェト同盟の社会主義の達成とするどく対比されるヨーロッパ諸国のファシズムへの移行などをも描こうとしている。そのような歴史の事情が女主人公の精神と肉体を通してどのように階級的人間を形成してゆくかを描こうとされている。
「暦」によって、働いて生きる人々の清潔で勤勉な人生の語りてとしてあらわれた壺井栄が「暦」の続篇としての性格をもっている「渋谷道玄坂」をかき、その系列として「妻の座」を生んだことには、軽く通りすぎてしまうことのできない意味がみとめられる。
「妻の座」は、題材の困難さも著しい。作者自身としては題材のむずかしさ、苦しさに力の限りとっくんでゆく努力に自覚をあつめているうちに、この作家がこれまでかいて来た平明で、まとまりよくおさめられた作に見られなかった苦渋をにじませた。常識と分別、ひとがらのかしこさがくつがえされて、むき出された人間関係のえぐさ[#「えぐさ」に傍点]は、「妻の座」の場合、作品の世界の中で関係しあっている人物たちが、我知らずその精神、生活態度のうちにもち運んで来ている小市民的な先入観、世俗性のもつれであった。「妻の座」は、この作家について論じるとき無視することのできない特殊な一作となった。
 かつて『女人芸術』が、全女性行進曲というものの歌詞を募集したとき、伊豆の大島の小学校の教師をしていた一人の若い女性が、当選した。それが松田解子であった。秋田の鉱山に生い立った彼女は、プロレタリア文学運動の時代、婦人作家として一定の成長をとげた技量を、現在の多面な民主的政治的活動のうちに結実させようとしている小説「尾」(新日本文学)そのほか多くのルポルタージュ、民主主義文学についての感想などがかかれはじめている。
 一九四六年四月に網野菊の「憑きもの」が発表された。この作品は第一作品集『秋』から『光子』『妻たち』『汽車の中で』『若い日』その他二十余年の間つみ重ねられてきたこの作家の、日本的な苦悩をさかのぼって照し出す感動的な一篇であった。このつましい、まじめな婦人作家は、永年にわたって彼女の一貫した題材となっていた不幸な母、不遇な妻、思うにまかせない娘としての女の境遇のきびしい壁が、日本の民主化とともにうち破られて「女もあわれでなくなる時がきた」とこの「憑きもの」の中に語っている。旧い日本から解放されようとするよろこびを、この作品のように素直に透明にうちだした作品は少かった。網野菊の正直なよろこびは、その後うつりかわってこんにちに及んでいる日本の民主化のごまかしとすりかえの甚だしさに対して、どんな内心の憤りを表現しようとしているだろうか。
 老いるに早い日本の文学者たちが、六十歳にも近づけば、谷崎潤一郎の「細雪」のようにきょうの一般の現実には失われた世界の常識にぬくもって、美文に支えられているとき、野上彌生子が、「迷路」にとりくんでいることは注目される。「青鞜」の時代、ソーニャ・コヴァレフスカヤの伝記をのせたが、青鞜の人々の行動の圏外にあった野上彌生子。プロレタリア文学運動の時代、「若い息子」「真知子」をかき、労働者階級の歴史的役割については認識しながら、当時の運動については批判をもっている者の立場をふみ出さなかった野上彌生子は、一九四六年後、「狐」「神さま」等の作品を経て、「迷路」に着手した。かつて、「黒い行列」としてかきはじめられ、情勢圧迫によって中絶したこの長篇は、現在第三部まで進んだ。二・二六事件をさしはさんで、ファシズムと戦争に洗われる上流生活の様相と、その中におのずから発展を探る若い世代の歴史的道ゆきを辿ろうとされている。
 野上彌生子の理性的な創作方法とはちがって、はるか
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