プはほどなく消滅した。中村武羅夫の「誰だ? 花園を荒す者は!」というプロレタリア文学排撃の論文は、文学史の上に有名である。武者小路実篤その他、人道主義作家として出発した人々が、彼らの人道主義の具体的発展であるプロレタリア文学運動に対して反撥をしめしつづけてきていることは注目される。いわゆる「純文学」が、ますます文学としての本質を弱体化されて出版企業に従属させられながら、プロレタリア文学運動に対しては文学の「文学性」「芸術性」を固執して闘いつづけている矛盾は、中村武羅夫の場合とくにあきらかであった。芸術性をいう彼自身は大衆小説の作家であった。
一九二九年に『女人芸術』に「放浪記」を発表して文学的登場をした林芙美子と、一九二〇年に短篇「脂粉の顔」をもって登場した藤村(宇野)千代の文学的足どりには独特なものがある。これら二人の婦人作家は、その出発のはじめ、それぞれに彼女たちが無産の女であり、生きるためにかよわい力で貧にまみれながら日々を過しているその境遇から生れる文学であることを訴えた。この訴えは、当時の社会的感情にうけ入れられやすかった。同時に彼女たちは、ただよう雲をみているような風情によって、また、どんなに貧しくてもその中で男のためにはいそいそと小鍋立もする、いじらしい女の文学としてのよそおいを強調した。そして、その貧しさという一般性と、そこにからめられたなにかはかなくとりとめない女の詩情のアッピールによって、貧しく出発した林芙美子は、「女の日記」を通って今日「晩菊」の境地に到達した。宇野千代は、一九三三年の「色ざんげ」を文学的頂点として、やがて「スタイル社」の社長となっていった。
この二人の婦人作家たちは、プロレタリア文学運動に近づかない自分たち女というものをアッピールすることによって、平林たい子とまたちがった文学行路を辿った。彼女たちがしめした道行は、田村俊子の生活と文学にみられなかった、より高度な資本主義への姿である。
一九二八年に発刊された長谷川時雨の『女人芸術』は、窪川、中條、松田、平林、などの作家から林芙美子、真杉静枝その他、当時の社会雰囲気に刺戟されてなにかの形で生活意欲の表現をのぞんでいた婦人のきわめて広範なエネルギーを吸収した。『青鞜』の時のように岡田八千代、山川菊栄、松村みね子などという人々も寄稿した『女人芸術』は勤労婦人の層にもよまれて、中本たか子、戸田豊子など労働婦人の生活と組合の活動にふれた婦人たちの文章もあらわれた。
『女人芸術』がその急進性によって、プロレタリア文学運動に参加している婦人作家の作品や組合婦人の声を反映してゆくために、長谷川時雨の希望する以上に『女人芸術』の革命的な熱情がたかまって行った。一九三二年の春、プロレタリア文学運動にきびしい弾圧が加えられたのち、『女人芸術』は廃刊されて、『輝ク』というリーフレットとなった。そののち、侵略戦争がすすむにつれて『輝ク』は、陸海軍に協力して「輝ク部隊」というものに編成された。
一九四一年時雨の死去ののち「輝ク部隊」も自然消滅した。
十二年間[#「十二年間」はゴシック体](一九三三―一九四五)
一九三三年の一月ドイツではヒットラーが政権を得、二月日本政府代表は国際連盟から脱退した。小林多喜二がこの年二月二十日築地署で拷問によって殺された。一九三一年九月にはじまった日本帝国主義の満州侵略は、三二年一月に拡大されて上海事変となり、侵略を拡大しようとするファシストと軍部の若手将校によって五・一五事件がおこされ、犬養首相その他が暗殺された。六月には共産党の指導者として獄中にあった佐野、鍋山が侵略戦争とその命令者である天皇の絶対権を支持する声明を発表した。
彼らの恥ずべき卑劣さのために、プロレタリアートの政党や文化・文学運動に直接結ばれていない人々まで、その良心から語る戦争批判、日本の絶対主義的支配に対する批判、戦争という事実が示す階級社会の富と正義・文化の偏在などに対するヒューマニスティックな検討の自由さえも、ねこそぎ抑圧されることになった。日本は憲兵と思想警察の日本となった。
一九三二年の春以後は、機関誌『プロレタリア文学』の発刊も困難となった。プロレタリア文学運動が、国際的な成果をくみとりながら十年のあいだ前進させてきた現代文学の発展段階を、多くの人々がそれぞれの政治的文学的云い方で否定し、抹殺し、その流れから身をかわそうとする動きが支配的になった。
現実から目をそらした「文芸復興」の声が現実にもたらすことのできたのは、随筆流行にすぎなかった。内田百間の「百鬼園随筆」につれて、森田たまが「もめん随筆」をもってあらわれた。
一九三四年に日本プロレタリア作家同盟が解散された。その秋の陸軍特別大演習には菊池寛その他の文学者が陪観させられた。そして林房雄、亀井勝一郎らと当時の思想検事関係者の間に「文芸懇話会」が生れた。
しかしフランスとスペインには、ファシズムに抗して人民戦線が生まれ、この年の八月十七日から九日一日までの間、モスクワでは「五十二の民族、五十二の言語、五十二の文学」を一堂にあつめた第一回全ソヴェト同盟作家大会がひらかれた。フランスからはロマン・ロラン、アンドレ・ジイド、アンリ・バルビュス、アンドレ・マルロオなどの他に世界革命的作家同盟のフランス支部の責任者であるポール・クーチュリエの五人が招待された。この大会は知識人と労働者が真に団結してファシズムと闘い、文化の自由を守らなければならないことを世界にしらした。これが動機となって一九三五年六月三日パリで「文化擁護のための国際作家大会」がもたれた。ファシズムに反対するすべての作家が結集した。当時日本ではかろうじて進歩的な世界文化の動きを紹介していた新村猛は『世界文化』十月号にこの意味深い大会の報告を伝えた。小松清もこの文化擁護の大会の議事録を翻訳して、日本にもファシズム反対のなにかの行動を可能にしようとした。
プロレタリア文学運動が破壊されたことは、プロレタリア作家たちが組織を失い、分散させられ、その困難の中で稲子の「くれない」、中野重治「村の家」、宮本百合子「乳房」などが生まれたというばかりではなかった。小林秀雄の評論活動をはじめとして、プロレタリア文学運動に反撥することで、それぞれの派の存在を支えていた「純文学」の分野にも、はげしい混乱と沈滞をおこした。三木清によってシェストフの「不安の文学」が語られ、やがて「不安の文学」にあきたらない小松清、舟橋聖一などの人々がフランスの反ファシズム運動を変形させた「行動主義の文学」を提唱しはじめた。
だが、一方では和辻哲郎が学識を傾けて日本の特殊性を主張するために「風土」を書き、保田与重郎、亀井勝一郎らが日本浪漫派によって神話時代、奈良朝、藤原時代の日本古代文化と民族の精華とを誇示し、横光利一は小林秀雄とともに純粋小説論をとなえはじめていた。この純粋小説論は、限界をしめしている私小説から社会的な文学への展開といわれたが、本質は作品の世界に再現される社会的現実に対して、作家の人間的・社会的主体性をぬきさった創作の方法であった。作家の自我は敗走した。この理論は、時をへだててあらわれた私小説否定としての風俗文学の本質、中間小説の本質につながるものとなった。
窪川稲子の作品も次第に身辺的な男女問題をテーマとするようになった。この時期に岡本かの子が「鶴は病みき」によって出発し、一九三九年急逝するまで、「母子叙情」「老妓抄」「河明り」その他、多くの作品をおくり出すようになった。
内閣に情報局がおかれ、日独防共協定にイタリーが加えられ、国民精神総動員運動がおこされたころ、新しく生まれた婦人作家に川上喜久子がある。彼女の「滅亡の門」は、当時の文学の実体の萎縮に反比例して、作家たちが主観的にとなえていた「芸術的意欲の逞しさ」を反映している創作態度であった。
これより少し前に短篇によって登場した小山いと子は、この頃「熱風」や「オイル・シェール」というような作品を生むようになっていた。小山いと子は従来の婦人作家としては社会現象に対して強い興味と追求心をもった作家で、この二つの作品にしろ、みもしらない外国を背景として日本技師のダム工事にからむ事件や、人造石油製造の技術の発展とそれにからむ人事などをあつかっている。小山いと子のその積極性も戦争協力の「生産文学」の範囲から自由になることはできなかった。
一九三八年から九年にかけて満州と中国に侵略した日本の軍事力は、ますますあれ狂って張鼓峰事件をおこし、ノモンハン事件を挑発した。文学者数十名が「武漢作戦」に従軍し、林芙美子は当時有名だった「北岸部隊」をかいた。国内では国家総動員法が全面的に発動され、国外ではヒットラーのナチス軍がポーランドに侵入しヨーロッパを火と死のうちにつきこんだ。
このような年に婦人作家の活動が現代文学史のいつの時期よりも盛であったと記録されるのは、どういう理由からであったろう。窪川稲子「素足の娘」、真杉静枝の「小魚の心」「ひなどり」(短篇集)、大谷藤子「須崎屋」、中里恒子「乗合馬車」、壺井栄「暦」、そのほか矢田津世子「神楽坂」、美川きよ、森三千代、円地文子など当時の婦人作家はその人々の文学的閲歴にとって無視することのできない活動をした。一九三九年度の芥川賞、新潮賞などが婦人作家に与えられた。ジャーナリズムはこの年を「婦人作家の擡頭」という風によんだ。
この現象は、しかしながら、決して婦人作家に未来の発展を約束する意味での擡頭ではなかった。なぜならばこの年の活動を通して一定のポスター・バリューをもつことを証明した婦人作家たちは、たちまち軍情報局に動員されて、侵略軍のおもむいている、すべての地域に挙国一致精神のデモンストレーターとして利用されなければならないはめに立ったのであった。
婦人作家たちの上にもたらされたこの無慙なさかおとし[#「さかおとし」に傍点]の事情は、ひきつづき一九四一年十二月太平洋戦争にひき入れられたのちの五年間を通じる波瀾と社会変動を通じて、少くない数の婦人作家を生活的に文学的に消耗させてしまうこととなった。
一九三九年代に、婦人作家の活動が目立ったということにはいくつかの重りあった理由があった。第一は用心ぶかくプロレタリア文学運動の荒い波をよけて、いわゆる「純文学」にたてこもってきた婦人作家の大部分が、この時期に、それぞれ一定の文学的完成をしめすようになったということである。第二の理由として考えられるのは、当時の国民精神総動員の圧力によって作者の人間的・社会的良心をぬきにした題材主義の長篇がはびこっていたのに対して辛うじて婦人作家の文学が文学のかおりを保っていると思われたことである。生産文学、農民文学、戦線を背景としてかかれた小説のどれもが、主題は軍の統制配給品であった。婦人作家の作品は男の作家よりも社会的関心がうすいために、かえって作品の中に文学の純粋さ[#「純粋さ」に傍点]を保っているという角度から注目をされたのであった。
川端康成が次のように語ったことは暗い予告の意味をもった。「女そのものが装いなしには存在しないように女の作家は自分の筆で装った女を私たちにみせるのだ。女流作家の芸術とは、そういう装いになり、それを装いであるが故に嘘だとするのは、私たちの短見なのだ。」そしてそのような装いをもって一種の「絵の中の女」となっている婦人作家の女たちが、「そのためにかえっていとおしくなるのを深く感じた。そしてそのことはそれでいいことなのだろう。」と。婦人作家のそのように装われた[#「装われた」に傍点]文学がジャーナリズムの上に一定の宣伝効果をもっているということ、しかも社会的現実に対する批判の能力は男の作家よりも弱いという事実について認識を与えられた軍情報部は、たちまち、そのような婦人の文筆を利用した。すべての婦人雑誌が婦人の戦争協力のために動員されていた当時、男に対してさえも男が書いたものとはちがったアッピールをもっている婦人作家を、報道活
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