婦人作家
宮本百合子
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《》:ルビ
(例)刃《やいば》
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(例)黎明[#「黎明」はゴシック体]
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黎明[#「黎明」はゴシック体](一八六〇―一九〇〇)
一八六八年、フランス資本主義に後援されていた徳川幕府の最後の抵抗がやぶれた。そして翌一八六九年、日本全土にしかれていた封建的統一はそのままとして、その上に維新政権が樹立された。
福沢諭吉の「窮理図解」(一八六八)「世界国尽」(一八六九)「学問のすゝめ」(一八七一)などが、新しい日本の文化をめざます鐘としてひびきはじめた。
徳川の三百年を通じて文化・文学の上で婦人の発言は全くしめ出されていた状態だった。江戸文学は数人の女流俳人、歌人を有し、歴史文学の荒木田麗女の「池の藻屑」「月の行方」などが、源氏物語を模した文体でかかれた歴史物語としてつたえられているだけである。いわゆる維新の女傑たちの文学的表現は、「尊王」の短歌の範囲であった。これらの姉たちは、尊王攘夷というスローガンの実体が、王政復古といいながら実は天皇を絶対権力者とする半封建的資本主義社会体制への移行であることを知っていなかった。
「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という人権のめざめにたって動き出した明治初期の積極的な婦人たちは、キリスト教教育による封建社会への批判と習慣の改良をその中心とした。そして文学よりはまず「実学」を必要とした当時の気運にしたがって婦人の活動は新生活運動の形をとった。夫人同伴会、婦人束髪会、婦人編物会、矯風会をはじめとして、日本各地に生れた各種各様の婦人会は、男女同権の思想を基礎にして、ピューリタン的な「家庭の純潔」をめざした。婦人の自主的なこれらの動きは、一八七二年の人身売買禁止法、男子に等しい義務教育令の制定や、福沢諭吉の一夫一婦論、廃娼論とならんで、森有礼が『明六雑誌』に「妻妾論」を書いて当時のいわゆる「権妻」の風習に反対したことにも通じている。しかし婦人の半奴隷的な境遇はつづいて、全人民による選挙と国会開設を求める自由民権運動に参加した十九歳の岸田俊子(のち自由党首領中島信行・長城の夫人。号湘煙・中島飛行機製作所長中島知久平の母)や、小学校の代用教員であった影山英子(のち福田英子『妾の半生涯』改造文庫)などがその政談演説の中で主張したのは、「天賦人権自由平等の説」と「女子古来の陋習を破る」べきことであった。
当時の婦人民権運動家の活動は、一般の女の生活の底にまでふれてゆく条件を欠いていた。岸田俊子が『女学雑誌』などに書いた感想小品の文体をみてもあきらかである。ふりがなをつけても意味のよくのみこめないような漢文調で書かれた感想の間に、英詩が原文のまま引用されているという風で、一種の婦人政客であった彼女には、婦人大衆の日々の現実におり入ってその自覚に訴えかけてゆくような真実の社会性はめざめていなかった。
一八八八年、田辺龍子(三宅花圃)が発表した「藪の鶯」が、婦人によって生まれたやや文学らしい文学の第一歩をしめした。明治初期には「実利実学」の気風と、徳川時代から小説を軟文学としてかろしめてきた伝統とがからみあっていて、岸田俊子なども台所や茶の間に手帖をおいても書いてゆけるものという理由で、文学の仕事は女にふさわしいといった。「淑徳才藻のほまれたかい」女子が「学びの窓の筆ずさみ」に小説を書くというように考えられ、いわれていた時代であった。
「藪の鶯」は、坪内逍遙の「当世書生気質」(一八八五)の影響と模倣によって書かれた。「藪の鶯」は当時二十一歳であった彼女の生活環境である上流官吏の家庭・社交の雰囲気を、まざまざと反映している。洋服で夜会にゆく上流の令嬢は、明治二十三年の国会開会をひかえて自由民権運動が抑圧され、五七〇名が「宮城三里外」に追放され、保安条令によって集会一切が禁止されるという当時の支配階級の反動政策について、何も理解していなかった。女同士の話よりも「紳士がたの話から啓発されるところが多かった」龍子は、それらの紳士がたが語る支配階級の社会観、女性観をそのまま「藪の鶯」の中に反映させている。男子を扶けて、家庭を治めそのかたわら女子にふさわしい専門の業をもしてゆくことがのぞましいという、半ば独立し、半ば屈従の範囲での女子の向上が、「藪の鶯」のかしこい女主人公の語る理想である。龍子の時代の若い上流子女はもはや民権時代の婦人が抱いた「天賦人権」の観念への道は封じられていた。その時代については「たいそう女の気風がわるくなった時代」として、軽蔑をもって見るように教育されはじめたのであった。
「藪の鶯」が封建的な尾をひいている「当世書生気質」の影響のもとに書かれて、その前年に発表され、近代小説の本質に迫った二葉亭四迷の「浮雲」とは、全く無縁の作品の世界をもっていることは注目すべきである。また、花圃とおない年であった北村透谷が激しい青年の心に当時の社会矛盾を苦しんで、「当世書生気質」の半封建的な人生態度の卑屈さと無思想性に強く反撥しながら、人間の精神の高貴さを求めていた思想の動きに対しても、花圃の環境が全く無感覚に生きられていたということにも関心をひかれる。はじめて婦人によって書かれた小説という意味で、文学史に記録されている「藪の鶯」は、文学の本質において決して近代精神の先頭にたって闘うものではなかった。筆のすさびとして当時の教育ある婦人[#「教育ある婦人」に傍点]の妥協的常識の水準をしめしたものである。
「藪の鶯」の本質はそのようなものであったが、この一作が世間の注目をひいたことは、他のいくたりかの文才のある婦人たちに文学活動の可能を与えることとなった。木村曙「婦女の鑑」が読売新聞に連載され、清水紫琴「こわれ指輪」、北田薄氷、田沢稲舟、大塚楠緒子、小金井喜美子(鴎外妹)の翻訳、レルモントフの「浴泉記」、ヒンデルマン「名誉夫人」、若松賤子のすぐれた翻訳「小公子」などがもたれた。
これらの婦人文学者たちの教養は、花圃の内面世界よりも数歩前進してヨーロッパ文学の影響のもとにあったであろう。しかし、生活の現実において、彼女たちの文学は女としての日常のおもしの下にひしがれた。この人びとの文学への志は根気強い、いちずなものがあったにしろ、当時の社会環境の中で女の文学の仕事は、やはり余技の範囲にとどめられた。このことは、少くない作品をかいた大塚楠緒子の死後、作品集がのこされていないことにも語られている。田沢稲舟が山田美妙との恋愛事件に対して世間から蒙った非難に耐えなくて、自殺したことにもあらわれている。
生活のために職業として小説の創作に入った最初の婦人作家は、樋口一葉であった。一葉の苦しかった生活のいきさつは、ひろく知られている。「にごりえ」「たけくらべ」などは、古典として、今日に生命をつたえている。これらの独特な趣をもって完成されている抒情作品は、明治文学が自然主義の移入によって大きい変化をおこす直前、すでに過去のものになろうとしていた紅葉・露伴の硯友社文学のある面と、透谷・藤村などの『文学界』のロマンティシズムとが、一葉という一人の才能豊かな婦人作家の上にこって玉をむすばせたともいうべきものであった。
一葉は、一方に封建的なしきたり、人情をひきずりながら、急速に資本主義化してゆく当時の日本の社会層で、下づみにおかれている人々の男女関係、親子関係、稚な心の葛藤などを、紅葉・露伴の文脈をうけついだ雅俗折衷の文章で描き出した。曲線的な彼女の文体はままならぬ浮世に苦しみ反逆しながら、それをくちおしさ[#「くちおしさ」に傍点]としうらみ[#「うらみ」に傍点]として燃やす女のこころと生活の焔によって照らされ、それまでの婦人作家の誰も描き出すことのできなかった文学の世界をつくった。一葉の世界は旧く、しかしあたらしく、また旧さにたちかえって、そこに終結した。このことは彼女の全作品を通じてみられる興味ふかい歴史的要素である。彼女と半井桃水との、恋であって恋でなかったようないきさつに処した一葉の態度にも、この特徴はあらわれている。一葉の文学に独特なニュアンスとなって響いている旧いものは、とりもなおさず当時の庶民生活のあらゆるすみずみに生きて流れていた人民の真実であった。彼女の作中の人物たちは、心と身をうちかけてそのしがらみの中にもがいた。その意味で一葉の作品は、雅俗折衷の文体そのものによって旧い情感を支えながら、こんにちに生きのびる実感を保っているのである。
短い翼[#「短い翼」はゴシック体](一九〇〇―一九一六)
『明星』が発刊されたのは、一九〇〇年のことであった。黒田清輝、岡田三郎助、青木繁、石井柏亭など日本の洋画の先駆をなした画家たちが、与謝野鉄幹を中心として「新詩社」を結成した。二年前に『文学界』が廃刊された。鉄幹は透谷、藤村などのロマンティック時代を、芸術至上主義の気よわなロマンティシズムであるとして、『明星』を彼のいわゆる「荒男神」のロマンティシズムに方向づけた。鉄幹のこのロマンティシズムの本質は、「支配する者のロマンティシズム」として認められている樗牛のロマンティシズムと同質のものであった。日本のロマンティシズムのこのような変貌のかげには、一八九四―一八九五の日清戦争で、日本が台湾・朝鮮の植民地所有者となり、賠償金三億円を得て産業革命が躍進させられたという社会事情がひそんでいる。
一八九七年に鉄幹の詩集『天地玄黄』が、アジアにおける侵略者としての、日本の最初の勝利のうたい手としてあらわれた。堺の菓子屋の娘として、『文学界』をよみ、やがて『明星』にひかれて、『みだれ髪』をあらわした(一九〇一)与謝野晶子は、女として人間として彼女のうちに燃えはじめたロマンティシズムの性格が、鉄幹の「荒男神」ロマンティシズムと、どのようにちがうかということは自覚するよしもなかった。二十三歳であった晶子は、『明星』にひかれ、やがて鉄幹を愛するようになり、その妻となったのであったが、その時代に生れた『みだれ髪』一巻は、前期のロマンティストたちが歩み出すことのできなかった率直大胆な境地で、心と肉体の恋愛を解放した。『みだれ髪』は当時の日本に衝撃を与えて、恋愛における人間の心とともに肉体の美を主張したのであった。
「当世書生気質」には遊廓が描かれていた。「藪の鶯」の中では、いわゆる男女交際と、互いにえらびあった男女の結婚が限界となっていた。一葉の生活と作品の世界で「恋」は切なく、おそろしいものであった。紅葉は作家が自身の恋愛問題を作品として扱うことを「人前に恥をさらす」と考えた。藤村の「お小夜」「つげの小櫛」の境地は、『みだれ髪』にうたわれた女の、身をうちかける積極性と、何とちがった抒情の世界であるだろう。『みだれ髪』は現代文学の中に、はじめて女性が自身の肉体への肯定をもってたちあらわれた姿であった。
晶子のこのような生命の焔、詩の命が、みじかい数年の後に次第に色あせてゆき、官能の自然発生的なきらめきを、その作歌の中で成長させ高めてゆくことが出来なかったのは遺憾である。一九四二年にその長い生涯をとじるまで、晶子は文学活動においても母としても実に多産であった。『みだれ髪』から『春泥集』(一九一一)に移ってゆく過程には
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あはれなる胸よ十とせの中十日おもひ出づるに高く鳴るかな
いつしかとえせ幸ひになづさひてあらむ心とわれ思はねど
人妻は七年六とせいとなまみ一字もつけずわが思ふこと
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など深い暗示をもつ歌も生れた。
つぎつぎにうまれる多くの子供らを育て、年毎に気むずかしくなる良人鉄幹との生活を、母として妻として破綻なくいとなんでゆくためには、経済的な面でも晶子の全力がふりしぼられた。短歌の他に随筆も書くようになって行った。随筆で、晶子は不如意な主婦・母親としての日常を率直に語って、生活的であった。晶子が書く政治的な論文は、当時の婦人には珍しい
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