社会的・政治的発言としてよまれた。しかし、彼女の短歌の世界は、現実のそういう面に接近させられなかった。与謝野晶子の歌として、世人が期待するになれた象徴と自然鑑賞のうちに止まりとおしたことは注目されなければならない。様々の理由がそこにあったろう。晶子が、自身の創作上の方法論をもたなかったこと、それも、彼女の発展を困難にしたことはたしかである。
一九〇四年、晶子が「旅順港包囲軍の中に在る弟を歎きて」つくった新体詩「君死にたまうこと勿れ」は、「ああ弟よ、君を泣く」という第一句からはじまって深い歎きのうちに「君死に給うこと勿れ」と結んでいる。「親は刃《やいば》をにぎらせて、人を殺せと教えしや、人を殺して死ねよとて、二十四までも育てしや。」「君死に給うことなかれ。すめらみことは戦に、おおみずからは出でまさね。かたみに人の血を流し、獣のみちに死ねよとは。」「十月もそわでわかれたる少女心をおもいみよ。」
この詩は『明星』に発表された当時、愛国詩人大町桂月一派から激しい攻撃をうけた。その後、この詩は晶子の作品集からけずられて、四十数年を経た。「すめらみことは」いでまさぬ太平洋戦争の敗北によって、日本の権力が武装解除されたとき(一九四五年)この「君死にたまうこと勿れ」は、新しい感動をもって紹介されよみがえらされた。この作品は、当時の晶子が、侵略戦争の本質については深くふれず、「旧家を誇るあるじにて、親の名をつぐ君なれば、君死に給うことなかれ」という親のなげきの面から、また、「のれんのかげに伏して泣く、あえかに若き新妻」の「この世ひとりの君ならで、ああまた誰にたのむべき、君死にたまうことなかれ」と「家」の感情にたって訴えている。天皇は戦争を命令し、人民は獣の道に死ぬことを名誉としなければならなかった一九三一年からのちの十四年間、かつて「君死にたまうこと勿れ」を歌ったこの女詩人はどのような抗議の歌を歌ったろう。晶子は彼女を歓迎する各地の門人、知友の別荘などにあそんで装飾的な三十一文字をつらねていた。
自然主義のさかんであった時代に花袋門下として生まれでた婦人作家水野仙子が、その着実な資質によって努力をつづけながら、人道主義文学の擡頭した時期に「神楽坂の半襟」「道」「酔いたる商人」などを書いたことは、意味ふかく観察される。『ホトトギス』の写生文から出発した野上彌生子も、やはりあとの時代に「二人の小さいヴァガボンド」などによって、婦人作家の文学にヒューマニスティックな新しい面をひらいた。
自然主義の「露骨なる描写」の方法は、小市民としての作家が経済政治面からしめ出されつづけてきた日本の社会的環境では、フランスでのように、社会小説として、その露骨さへ発展させてゆくことができなかった。藤村の「破戒」から「家」への移りは、この現実を語っている。「家」はそこをしめつけている封建的な、家長的な圧力に耐えかねて、「家」を否定した当時の若い世代が、個人の内部へ向けるしかなかった自己剔抉となって「私小説」の源としての役割をおびた。
婦人作家の境遇は、まだまだ男に隷属を強いられる女としての抗議にみちていた。したがって彼女たちにとっては初期の自然主義作家の肉慾描写をまねようとするよりも、むしろ、そのように醜いものとして描写されている肉慾の対象とされていなければならない女性の受動的立場と、それを肯定している習俗への人間的抗議が、より強く感じられたのは自然であった。小寺菊子は自然主義的な手法で婦人科医とその患者との間におこる肉感的ないきさつを描いたりもしたが、この作家でも、「肉塊」としての女は描けなかった。この現象は、案外に深く文学そのものの人間性につながる意味をもっているものではなかろうか。婦人の芸術的能力が客観性をもたず弱いから、男の作家の描くような女が描けず男がかけないという解釈だけでは、不充分なものがある。資本主義の社会体制は婦人を人間的にあらせることが不可能な条件の上に保たれている。資本主義社会内に対して、新しい歴史の力が闘いをいどみはじめた第一歩である自然主義の時代、特に日本のように、近代化がおくれて女の抑圧されている社会で、少くともものを書く婦人が、封建的な小市民道徳に抗議する男自身、女に対してもっている封建性への抗議をとびこさなかったのは一必然であった。
一九一〇年八月におこった幸徳秋水たちのいわゆる「大逆事件」が、高まる労働運動を封殺して絶対主義権力を守るために利用された大仕掛な捏造事件であったことは、今日すべての人の前に明らかである。
しかしこの事件の真相をつきとめることさえも許されなかった当時の情勢の中で、「大逆事件」は、片山潜、堺利彦、西川光二郎、山口孤剣によって大衆化した社会主義運動を地下に追いやったばかりでなく、フランスから帰って間もなかった永井荷風の作家的生涯を戯作者の低さに追放し、『白樺』を中心として起った日本の人道主義文学運動を、社会的推進力にかけた超階級的な世界天才主義に枠づける動因となった。そして一方では、自然主義文学運動の日本的な変種としての「私小説」が志賀直哉によって現代文学の主流とされるまでに完成されてゆくことにもなった。
平塚らいてう、尾竹紅吉などによっておこされた青鞜社の運動がその本質はブルジョア婦人解放に限界されていたにもかかわらず、当時の進歩的な評論家生田長江、馬場孤蝶、阿部次郎、高村光太郎、中沢臨川、内田魯庵などによって支持され、社会的に大きい波紋を描いたのも、政治・労働運動に民衆の発展する意志を表現することを得なくなった進歩的インテリゲンチャの一動向であった。
雑誌『青鞜』は、「元始、女性は太陽であった」その女性の天才を「心霊上の自由」によって発揮させるというらいてうの理想によって発刊された。『青鞜』には、小金井喜美子、長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子から、まだ少女であった神近市子、山川菊栄、岡本かの子その他を網羅して瀬沼夏葉はチェホフの「桜の園」の翻訳を掲載した。野上彌生子が「ソーニャ・コヴァレフスカヤ」の伝記を翻訳してのせたのもこの雑誌であった。
「新しい女」というよび方がうまれた。たばこをのむこと、酒を飲むこと、吉原へ行ってみることなどさえも婦人解放の表現であるとされた時代であった。イプセン、エレン・ケイの婦人解放思想がうけ入れられたが、やがて奥村博史と結婚したらいてうの生活が家庭の平和をもとめて『青鞜』の仕事から分離したことと、その後をひきついだ伊藤野枝がアナーキスト大杉栄とむすばれて、神近市子との間に大きい生活破綻をおこしたことなどから、『青鞜』は歴史の波間に没した。
同時代にあらわれた『白樺』のヒューマニストたちが、『青鞜』のグループと終始或る隔りをもちつづけたことは、注目される。学習院の上流青年を中心とした『白樺』の人々のこの時代の作品には彼らの女性交渉の二つの面がみいだされる。彼らは一方では同じ階級の令嬢たちに、自分たちの思想を理解し、献身してそれを支持するヒューマニズムのめざめを期待すると同時に、他の面では、封建的な吉原での遊興を拒まず、売笑婦にふれ、召使と若様の性的交渉をもった。白樺の人々のヒューマニズムの半面につよく存在している上流男子の男尊と、われ知らずの専制の習慣は、彼らの日常になれた女のしつけ[#「しつけ」に傍点]やものいいを野蛮にけちらして、彼女たちが生れて育って来たそれぞれの地方のなまりがひびく声々で、婦人解放を叫び行動する『青鞜』の女性たちに、へきえきしたであろうことは今日ユーモアをもって想像するにかたくない。
「元始、女性は太陽であった」といったらいてうの落日のはやさや、晶子の情熱の燠《おき》の姿に身をもってあらがうように、田村俊子の作品がうちだされた。露英という号をもって露伴に師事していた田村俊子は、やがて露伴の文学的垣をやぶって一九〇九年大阪毎日新聞の懸賞に「あきらめ」という長篇で当選した。三年のちに発表された短篇「魔」「誓言」「女作者」「木乃伊の口紅」「炮烙の刑」などは『青鞜』によった人々が、それぞれ断片的な表現で主張していた女の自我を、愛欲の面で奔放に描き出した作品であった。次第に生活の力も創作の力も失ってきた夫、田村松魚との生活のもつれのなかで、「あきらめ」がかかれた。はじめは松魚のはげましやおどしによって書いた俊子は、この仕事ののち、「自分の力を自力でみつけて動き出した。」一作毎に俊子の文学的な地位と経済の独立が確立した。そして彼女は自分を支配するものは自分自身以外にはないという自覚にたつと同時に、その生活と文学との官能の場面でも男の支配から脱しようとする女の自我を描き出した。
田村俊子の色彩の濃い、熱度の高い男女の世界は、女の自我をテーマとして貫いている点では、当時流行のダヌンチオの小説にも似た強烈さがあった。けれどもその一面には、彼女が浅草の札差の家に生い立ったという特別な雰囲気から、江戸末期の人情本めいた情痴と頽廃とがつきまとった。自分が愛したい者を愛することは「私の意志」であり、それは決して悪いことをしているのではない。愛のさめた良人が強制する良人の権利に屈従して謝るよりは、愛する男を愛し通して「炮烙の刑」をうけようというはげしい女の情熱をもえたたせた。
『みだれ髪』の境地からすすんで、愛における女の自我の主張にすすんだことは、俊子の文学の近代的な要素とみることができる。しかしこまかに彼女の作品の世界に入ってみたとき、彼女が男を愛する[#「愛する」に傍点]といっている感情の内容や、それは私の意志[#「それは私の意志」に傍点]だといっている言葉の実体が、意外にもおぼつかない、一人のみこみであったことが見出される。私の意志に[#「私の意志に」に傍点]よって男を愛して[#「愛して」に傍点]ゆくにしても、そのような男を選ぶ俊子の選択のよりどころはどこにおかれたのだろう。俊子は作中の女主人公に云わせている。「自分の紅総のように乱れる時々の感情をその上にも綾してくれるなつかしい男の心」にこそひかれると。「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることはできませんよ。あれも男の技術ですもの」と。
このような角度で男女が結ばれてゆくなかに、どんな新しいヒューマニティとモラルがあるというのだろう。経済能力が女にあるというだけで、男と女の立場が逆さになっただけのことだとは思われなかったのだろうか。田村俊子は、そういう省察によって、自分の文学をわずらわされることがなかったようにみえる。それがどのように濃厚な雰囲気をもっていようとも、社会生活から遮断された愛欲の世界の単調さが、生活と文学とを消耗させないではおかなかった。彼女の自我は、自我を鞭撻してマンネリズムとなった境地から追いたて、新しい道に前進させてゆくだけの骨格をもっていなかった。俊子の文学は近松秋江の「舞鶴心中」幹彦の祇園ものにまじって情話「小さん金五郎」などを書くようになった。当時ジャーナリズムには赤木桁平が「遊蕩文学」となづけて排撃した情痴の文学が流行していた。俊子の人及び作家としての精神の中には情痴の女作者として腐りきるにはたえないものがあった。彼女は一九一八年頃愛人を追ってアメリカへ去った。
俊子が、その未熟であった社会感覚から、あやまって女の自我の発揮であると強調した男に対する積極性は、ほとんど全く同じくりかえしで、のちに三宅やす子の上にあらわれた。三宅恒方博士の死後彼女にとってせまくるしかった家庭生活から解放されたやす子は、花圃を長老とする三宅家の監視を反撥して「未亡人論」を書いた。良人に死なれた婦人にむけられてきた封建的な偏見に対して、率直に闘いを宣言した。この一冊によってやす子は啓蒙的な婦人評論家、作家として成功した。四十歳をいくらもすぎないで生涯を終ったやす子が、
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