に素朴な生活力ながら、やはり調べた題材による作品を送り出して来た小山いと子が、最近の「執行猶予」で、経済違反の弁護によって成り上ってゆく検事出身の弁護士とその家庭、現代風にもつれる男女の心理などを扱っている。小山いと子が、中間小説や風俗小説の刺戟的な方法に学んでグロテスクな誇張におちいらないで、むしろ常識の善良さで、この戦後的題材の小説をまとめていることは興味がある。然し、その常識的善良さは、更に鋭く客観的な観察に発展させられる必要がある。
ヒロシマで原爆の被害を蒙った大田洋子の「屍の街」は戦争の残酷さを刻印するルポルタージュである。芝木好子、大原富枝そのほか幾人かのひとがそれぞれ婦人作家としての短くない経験にたって、明日に伸びようとしているのであるが、婦人の生活と文学の道とは、今日も決して踏みやすくはされていない。女が小説をかくというそのことに対する非難の目は和らげられたにしても、既成の多くの婦人作家が属している中間的な社会層の経済的変動と、それにともなう社会意識の変化は、著しい。それらがまだ日常の雰囲気的なものであるにせよ、彼女たちには過去の文学の観念と創作の方法が、そのままで現在を再現し、明日のいのちにつながるにしては、何かの力を欠いて来ていることが自覚されてもいるだろう。
このことは、「白き煖炉の前」にて中里恒子に著しい。中里恒子は、彼女の特殊な生活環境によって、日本の上流家庭の妻となり、母となっている外国婦人の生活をしばしば題材として来ている。戦争中これらの外国婦人たちが日本で経験したことは、彼女たちの多くを日本人嫌悪におとし入れた。人間性《ヒュマニティ》は、一つと信じて生きて来た異人種の男女を、悲しい民族の血の覚醒に導いた。中里恒子の題材は、そのような日本の悲劇の追究をとおして、世界的な意味をもつヒューマニティーの課題である。民族の血の力に追いこまれた人々にふたたび高い人間的脱出を示す可能をひそめる題材である。けれども、中里恒子の文学はそういう環境の女性のしつけのよさと良識、ややありきたりの教養の判断にとどまっていて、作家として偶然めぐり合っている苦しい可能性を生かしきっていない。題材に匹敵する創作の方法が、この作家のところにないのは残念である。
人民的立場に生きる婦人として、生活の実体そのものから、はっきり民主的な地盤に立って生れ出て来ている作家は、既成の人々の生活と文学との上に見られるギャップが、素朴なりに埋められている点に注目しなければならない。多面的な日常生活の困難ととりくみながら、家庭の主婦であり、小さい子供の母である早船ちよが、「峠」「二十枠」「糸の流れ」「季節の声」「公僕」など、次々に力作を発表しはじめている。早船ちよは、「峠」の抒情的作風からはやい歩調で成長してきて、取材の範囲をひろめながら日本の繊維産業とそこに使役されている婦人の労働についてはっきり労働階級の立場から書きはじめている。彼女の筆致はまだ粗く、人間像の内面へまで深く迫った形象化に不足する場合もある。しかし現実生活に根をおろして、階級的作家としての成長がつづけられるならば、この作家の力量はやがて少くない成果をもたらすであろう。
一九三九年ごろの軍需インフレーション時代、出版インフレといわれた豊田正子『綴方教室』小川正子『小島の春』などとともに、野沢富美子という一人の少女が『煉瓦女工』という短篇集をもって注目をひいた。
「煉瓦女工」は、荒々しく切なく、そしてあてどのない日本の下層生活を、その荒々しさのままの筆力で描き出して、一種の感銘を与えた。その後、何ものにも保護されることのない無産の若い女性が、資本主義社会の中でその身にかぶらなければならないあらゆる混乱をきりぬけて、彼女も小池富美子となり一九四八年末『女子共産党員の手記』という短篇集を送り出した。「女の罰」「肝臓の話」「女子共産党員の手記」「墓標」。それらの作品には、彼女の生活環境と彼女自身のうちにある根深い封建的なものが、反抗と解放への激情と絡みあって、生のまま烈しく噴出している。暗く、重く、うごめく姿があるけれども、そこには、「人間は断じて自滅すべきものではない」という彼女の人民的なつよい生活力が燃えさかっている。「渇いている時に水などほしくないといったような嘘まで、わたしにはとても書けそうもないのです。」「煉瓦女工」の書かれたときも、小池富美子のモティーヴはそこにあった。「女だから特別にひまがなかったり、金がなく食べるものもたべられなかった苦しみをあんまり繰返したくないためには、」「私達はどんな思いをしても一切の生活の嘘とたたかい、勝利しよう。」そして、妻となり子供の母となって東北に生活している彼女は、もっといいものを沢山書いてゆきたいと骨折っている。
小池富美子が、「煉瓦女工」から、戦争の時代を通って今日に歩いて来た道は多くのことを考えさせる。彼女は泥まびれになってころがり(「女の罰」)時には泣きながらも、萎縮しなかった率直な生活意欲を保ちつづけた。封建的な要素の多い人情にからまりながら次第にそれらが、日本の社会の歴史的なものであるという本質をつかみ始めて来ている。彼女よりもひと昔まえの一九二〇年代の後半にアナーキズムの渾沌の裡から生れ出た平林たい子が、「施療室にて」から今日までに移って来た足どり。「放浪記」の林芙美子がルンペン・プロレタリアート少女の境地から「晩菊」に到った歩みかた。はげしい歴史の波の一つの面は、平林たい子、林芙美子という婦人作家たちをそのような存在として押しあげた。歴史の波のもう一つの面は、社会の底までうちよせて小池富美子を成長の道におき、印刷工場のベンチの間から、「矢車草」「芽生え」の林米子のために新しい生活と文学の道を照し出した。
「雨靴」石井ふじ子、「乳房」小林ひさえ、「蕗のとう」「あらし」山代巴、「遺族」「別離の賦」「娘の恋」竹本員子、「流れ」宮原栄、「死なない蛸」「朝鮮ヤキ」譲原昌子。その社会的基盤のひろさ、多様さにふさわしく、これらの婦人たちは人民の文学としての発言の可能を示しはじめている。けれども、人民生活と文学との苛烈さは、「朝鮮ヤキ」のすぐれた作品を最後として譲原昌子を結核にたおした。新しく書きはじめている婦人たちの文学は、早船ちよをやや例外として、まだその大多数が、小規模の作品に着手しはじめたという段階である。題材と創作方法の点でも、人民生活としてのひろがりをふくみつつ自身の生活によって確められている地点から語りはじめているのが特徴である。
小説というものが、人間、女――人民の女としてこの人生に抱いている意志と情感を語るものとなって来ていることは、この四五年の日本の社会の、すべての矛盾、欺瞞をしのぐ人民の収穫として評価されなければならない。
「海辺の歌」の松田美紀。一九四九年度に作品を示した戸田房子「波のなか」、畔柳二美「夫婦とは」、『四国文学』に「海軍病院の窓」をかいた正木喜代子。広津桃子「窓」、関村つる子「別離」。環境的な重荷をもって出発してる由起しげ子(「本の話」「警視総監の笑い」「厄介な女」その他)、波瀾のうちに、どのような発展をすすめて行くだろう。
幸田露伴という文人の、博学であったが封建性を脱げなかった常識的達人の鋳型を、やわらかい女の体と精神にしっかりと鋳りつけられた幸田文の文筆は、あまり特異である。文学にまで及んだ家長制について深く考えさせるものがある。
関村つる子、由起しげ子などの人々は、もう久しくつづけて来た文学の勉強の結果を、こんにち発表しはじめている。それほど久しい間婦人の、人間としての社会的発想は、抑えられつづけて来たのだ。抑えられているなかで、自分の文学の境地をまもりつづけて来た婦人たちの作品は、しかしながら、あまり現代の歴史のいきづきから遠くはなれて、それとしての完成を目ざして来たという印象を与える。由起しげ子のヒューマニズムは、自分で自分のヒューマニティーを劬りつづけて来た生活習慣から、早く強壮に巣立つ必要にせまられている。彼女の、「良識」と評せられる感受性は、現実の中でよごれずにはすまないこと、しかしそれはけがれ[#「けがれ」に傍点]ではないということを会得することが待たれる。関村つる子の真率さは、どのようにそのまゆ[#「まゆ」に傍点]をくいやぶるだろうか。きょうの文学史が二重うつしとなっていて、われわれの成長も二重の可能に立たされているわけがここにある。
由起しげ子、関村つる子、そのほか多くの婦人の作品のモティーヴは、ヨーロッパ文学の中では、ジョルジュ・サンドが婦人の人間性について訴えはじめてこのかた、第一次大戦までの資本主義社会の自由のなかで、婦人の文学によってかき出されて来たものであるともいえよう。けれども、われわれのところでは、一九五〇年のきょう、やっとこの人々の人間の声がきかれるようになった。モティーヴは、いくら世界史のうしろの頁からはじめられていても、それを展開してゆく生活と文学の可能は、前進している。はっきり民主的な立場に身をおいて書き出している婦人作家たちはもとより、由起しげ子の作品にしても、一九三九年代に女らしさ[#「女らしさ」に傍点]のよそおいに自分たちの文学を装った日本の婦人作家の悲しい身ぶりからは解放されている。広津桃子にしても、関村つる子にしても、人間としての女の自然な発声に立っている。
ささやかなように見えるこの前進は、重大な歴史の一歩である。なぜならば、婦人作家が、もう日本に独特な女心の人形ぶりをすることをやめたという事実は、それらの婦人作家にとっても、前進の道は人間の道、二十億の多数なる人民の道の上にしかないことを確証することであるから。このような行手の眺めは「わたしたちも歌える」に見られる小さな婦人たちの発言のうちにも閃いている。
きょうのジャーナリズムの上にあらわれて文学とよばれているものの大部分がどのようであろうとも、歴史とともに文学は変りつつある。
ヒューマニティーと歴史との関係は、益々鋭く一人一人の作家の生きかたとその文学の上にあらわになって来た。婦人作家が人間としての自立性を高めて来るにつれて、――女の文学から、人間の文学に高まるにつれ――理性によって選ばれ、方向づけられたヒューマニティーの意欲ある展開が婦人の文学の上にも花咲くことは当然期待されることである。
作家について語る場合、その人々の文学作品を見るばかりでなく社会的なすべての発言、すべての行動が統一的に見られ互に関係しあうものとして見られるようになりつつある。そして、更にいくつかの変転を経た日、「日本の社会における婦人と文学」との苦しい関係を語りつづけて来た婦人文学の特殊性は、人間の歴史の勝利の歌声のうちにとけてゆくのである。[#地付き]〔一九五一年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「婦人と文学」附録、筑摩書房
1951(昭和26)年4月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング