運動には参加しなかった。一九二七年『文芸戦線』に「施療室にて」を発表した平林たい子は、「投げすてよ!」などとともにアナーキスティックに混乱した経済生活と男女関係の中で苦しみながらそこからのぬけ道を求めている一人の無産女性を力づよく描いて注目された。彼女はアナーキズムとボルシェビズムとの理論闘争の時を通じてアナーキズムの陣営にのこり、その後、プロレタリア文学運動に沿って歩みながら、常に、『ナップ』とは対比的な立場に自身をおいて、「独特」さを示そうとしている婦人作家として経て来た。
 一九二二年に生まれた日本共産党は非合法の組織であったが、ともかく、労働者階級の経済・政治・文化・文学運動が互につながりをもって展開されるようになったことは、自由民権時代このかた窒息させられていた日本の、社会的な文学への要望を、より進んだ認識で成長させる可能を与えた。たとえば窪川稲子が、次々に現代文学にこれまでに発見することのできなかったすぐれた階級的作品をもたらすようになったのは、彼女の才能の単なる偶然の開花であっただろうか。また、中條百合子が、プロレタリア文化・文学活動の波にもまれながら、「新しきシベリアを
前へ 次へ
全60ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング