世界の単調さが、生活と文学とを消耗させないではおかなかった。彼女の自我は、自我を鞭撻してマンネリズムとなった境地から追いたて、新しい道に前進させてゆくだけの骨格をもっていなかった。俊子の文学は近松秋江の「舞鶴心中」幹彦の祇園ものにまじって情話「小さん金五郎」などを書くようになった。当時ジャーナリズムには赤木桁平が「遊蕩文学」となづけて排撃した情痴の文学が流行していた。俊子の人及び作家としての精神の中には情痴の女作者として腐りきるにはたえないものがあった。彼女は一九一八年頃愛人を追ってアメリカへ去った。
俊子が、その未熟であった社会感覚から、あやまって女の自我の発揮であると強調した男に対する積極性は、ほとんど全く同じくりかえしで、のちに三宅やす子の上にあらわれた。三宅恒方博士の死後彼女にとってせまくるしかった家庭生活から解放されたやす子は、花圃を長老とする三宅家の監視を反撥して「未亡人論」を書いた。良人に死なれた婦人にむけられてきた封建的な偏見に対して、率直に闘いを宣言した。この一冊によってやす子は啓蒙的な婦人評論家、作家として成功した。四十歳をいくらもすぎないで生涯を終ったやす子が、
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