か包括し得ないと同時に、それらの彼女らは謂わばブルジョア文化の精華として多分に、ブルジョア観念論的世界観に毒されたものを持っている。
しかもブルジョア社会文化は、いかに表面を種々様々の花束・手套・行儀作法でとりかざろうとも、本質において男尊女卑であり、婦人の性はその特殊性をも十分晴れやかにのばし得る形態において同位ではない。(男七十銭女三十銭の賃銀)それ故進歩的思索を可能とする婦人は、先ず家庭の男(父・夫・兄・その他)に対する不平等の不満から正義派となり、その正義派的不満を唯物論によって武装せず個人的に観念化することにおいて、微妙に道徳感、宗教的世界観と結びつく。
故に、ブルジョア文化の歴史において婦人作家はいつも一種の道徳家であった。さもなければ淫蕩文学の作家となって性のブルジョア的販売に陥った。特に封建性のつよい日本において或る時期ブルジョア・インテリゲンツィアの婦人作家が、色恋を描かず、男の美を作品の中に描き得ないのは、まことに当然である。
性的アドーレーションは人的アドーレーションなしに不可能であるから。
野上彌生子の作品で母の愛が恋愛的に描かれ、母の息子に対する恋愛が
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