悪とをもって語っている。文学を生み出してゆくものの側からこういう状態をみると、文学作品にたいする感情が婦人雑誌なみのところでひろがってきている点が問題であると思える。婦人の読者という側からみれば、今日は、きのう、おとといの女と自分たちの現実の低さはけっして劣るともまさっていないのに、青春の感覚のなかでそれに抗議する敏感さがうしなわれていて、むしろ恣意的な傾向があらわれて来ていることが考えられるのではなかろうか。ちょうど着物を買うときのように、彼女たちは本を買っている。読書も一つの生活の要素ではあるが、あれ面白かった? これどう? いい? という時の感情は、映画なんかについてしゃべるのと大したちがいを持っていないような気分があたり前のようになって来ていると思う。一冊の本の内へはいっていって、その世界と自分の生活とを密接にからみ合わせてみるという気魄のある読みかたが失われているように思える。
現代は一方に一種の精神主義がひろがっていて声高くものをいっているのであるが、その片面にこういう精神活動の低調さや、にぶりが目立つということは、日本の明日への文化のためにやすんじてよいことなのだろうか
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